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師走 [雑感]

 つい先ごろまであたり一面金色に染めあげていたイチョウもすっかり裸木となって、いつもの散歩コースを池に沿って歩くと穏やかな初冬の陽射しを浴びた木々の小枝がキラキラと反射して輝いています。思わず上を見上げると真っ青な空が雲一つなく広がって。今年ももうあとわずかです。何度か挑戦して腰砕けになってきた整理を試みています。時間がかかりそうです。年内に終わそうと思っていたのでしたが終わるのはむずかしそうです。でも来年にずれ込んでも今回は完成したいと思っています。

 いろいろあった一年でした。年々怪しさを増しているように思うのですが、それは相反する力のの一方が猛々しさを見せているからのように思えます。一方が強くなったからと言って、それに対して反対の力がなくなるわけではなく、葛藤しながら動きをつよめるようです。人類がどこに向かうのか、不信と闘争と破壊の歴史をどこまでもくりかえして地球も人間も危機を迎えるのか、不信と闘争の歴史から共生の世界へと変化させることができるのか問われています。もちろん私は後者を願っています。

 安倍政権について。一歩踏み込んで安倍総理のアメリカ一辺倒の危険性、なぜ安倍総理はアメリカ一辺倒なのか、そういう政権を国民はなぜ選んでいるのか。この辺りはよく考えてみたいところです。

 一即多、多即一。

 サイの角のように一人歩め。
  
 これは日々の暮らしの目標、指針のようなものになりました。


 訪問くださった皆様、ありがとうございます。
 来年よい年をむかえられますようお祈り申し上げます。




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親問題を今こそ考えたい

 このところ、比較的晴れの日が多い。秋の陽がいっぱいさす日は野山をあるいても、家の窓辺でほころびをつくろっていても、気持ちがうきうきと晴れる。太陽ってすごい力持ち。
 秋になると決まって思い出す風景。真っ青な空の下に咲くコスモス、川面に日差しを受けて反射しながら流れるやさしい小川、田んぼにいるタニシやザルガ二。黄金色に実った水田のあぜ道にはイナゴが飛び交っていたものですが、今はお目にかかることもあまりないのではないでしょうか。前世はタニシでもあったのかと思うくらい日本の秋の風景を探してしまう。健康のためにも歩かなくちゃ、ちょっと遠出して里山の近くにすることも。先日は地方に、農業に興味があって千葉市の高梨農園にいってみました。
 散歩には文庫本をたいがい持参します。最近読み応えがあったのは「我を超えること」近代理性主義の克服という本でした。イモずる式に読みたい本がどんどん増えてしまうのですがなかなか進みません。

 暴力ってなんだろう。時代が進み社会が進歩すると生きやすく、住みやすくなるんだと思ってきたのに、なぜ世界中が暴力的になるのだろう。海岸に横たわる幼い命、故郷を逃れた難民に援助の手は届かず、死と隣り合わせの人々。国内ニュースでも心が痛い。けれども何もできない。見たくない、考えたくない、知りたくないと思うわたしがいる。考えたって仕方がないと。

 親問題というのは実際の親の問題のことではない。人が生きることについての根本的な問題のこと。
 少し前、友人が憤慨したように、大学で人文文化系の学部を減らす方針を政府が決めたということを知らせてきた。人文文化系で学ぶ学生が心配しているという。あらゆることで何か、基本のこと、根本的なことが問われていると思った。 そういう思いはずっとずっと以前から心の底から離れなかった。
 人が生きていくことの基本ってなんだろうか。育てる、生かす、命をつなげる、人間が営々としてやってきたことはそのことなのだと思う。しかし、育てているのだろうか。生かしているのだろうか。命を大切につないでいるのだろうか。一部の人のために、だれかのために、だれかの命が粗末にされてはならないのではないだろうか。

暴力の問題をこれから考えたいと思うので以前書いたものを公開保存にしました。
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意識、無意識、認識。存在。 [生きるを考える]

 情報化社会の中にいる私たち、世界と日本、個人の距離は遠くて近い。日常とははなれた世界の出来事と個人が望むと望まないとにかかわらず無関係でない時代になりました。ある日突然爆弾で命を奪われる赤ん坊もいるのですから、個人の在り方は難しくなったのです。カオスといっていいのかもしれません。でもその中で小さな存在である個が、自分であるためには自分の生活を自分で考え設計しコントロールすることが必要なのだと思います。
 相撲とあまり関係のない人間がなぜ日馬富士の暴行事件が気になったのかを考えてみたいと思います。
 昨日のネットにこういう記事がのりました「見せしめか、勝ち目無き貴乃花の乱」
今日は「貴乃花親方がバッシングされても相撲協会と決裂した本当の理由」という記事がありました。最初の記事は貴乃花に近くで貴乃花の考えていることをかなりわかる人の考えのようです。
私はこの記事を読んで経過もわかり、そうだろうなと納得できる内容でした。
 かって時津風部屋の暴力事件があって、このとき一人の若者が死亡しました。体と体の激しいぶつかり合いの格闘技である相撲が国技である理由はそこにルールや心技体の理想があるからと思います。
 暴行の理由はなんだったのでしょうか。又暴行自体が許されることではないと思います。。
 記事によると親方の貴乃花が暴行を知ったのは26日といわれます。その時点で伊勢ケ浜親方に電話をし、暴行の事実を確認、また周囲の事件状況を知る人からも話を聞いているようです。
 この時点で暴行事件を起こした日馬富士から記者会見を開いての反省や謝罪、協会としての考えや処分があったら貴乃に花はそれで済まそうと考えていたという記事は考えられることと思いました。
 しかし横綱の不祥事だけに対応に苦慮、うやむやに事を済まそうとする暴力軽視や相撲への危機意識、管理能力のなさ、貴乃花親方に対する目障り意識などから組織防衛の力が働いているのでしょうか。
 協会のことや処分に関心はないのですが、暴力の問題についてです。
 暴力や虐待、いじめなどが多発する社会、そこに人間の病理、社会の病理があると思っています。その理由をしっかり考えるのでなければ安心してのびのびと活動できる世の中にはならないのではないでしょうか。
事件や犯罪などが起こるとそれを起こした人と自分とは違う、彼らは特別の人と思いがちですが、同じ人間の問題と思います。環境や歴史、その時の状況があるだけだと思います。
 名前を失念してしまったのですが名前を聞いたことのある精神科医がアルコールによる「脱抑制」と「間欠爆発症」について書いていました。
普段問題がなく、むしろ能力があったり、人の評価が高かったりするような人でも場合によっては心の危機に陥ってしまうことは誰にでもあることと思います。それがアルコールによる脱抑制状態では簡単に判断力を失ってしまいます。アルコールの脳に与える影響のこわさをよく知っている必要があると思います。
 次回、間欠爆発症といわれていることについて考えたいと思います。

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意識、無意識、認識  (2)

 日馬富士暴行事件についての報道となぜ今貴乃花親方が処分の対象になろうとしているのかということについて疑問を感じています。

 今朝、見せしめか、勝ち目無き貴乃花の乱という記事をみました。日馬富士の暴行事件の報道を見ていて、いろいろのことを感じました。自分なりにこの問題を考えてみたいという気持ちがつよくなりました。
日馬富士サイドの証言とそれ以外の貴ノ岩のお兄さんや後援者の話とは事実関係にちがいがみられわかりにくかったのですが、かなり様子が分かってきたように思います。時間の経過もすこしづつみえてきました。単なる酒の席の喧嘩に終わるようなものではない傷害事件であるということをまずはっきりととらえるべきでしょう。たとえどんな地位にある人間でも関係はありません。
今回の問題が暴行による障害事件としてだけ取り扱われていいはずですが、それだけですまなくなった理由は加害者が相撲界の現役横綱だったこと、被害者が相撲界の改革を考えている貴乃花部屋の弟子であること、幕内力士の半数を超えるくらいにモンゴル出身の力士が多くなって、モンゴルと日本との関係にまで影響が及んでいることなどがあるようです。モンゴル大統領から日本政府に話し合いの申し込みがあったということですから、さらに肝心の当事者間の暴行問題から離れた場にまで拡大しているようです。

 報道ははじめ周辺の人のまた聞き、憶測など事実関係が分かれる証言の中で加熱していました。横綱の暴力事件だけに相撲界の不祥事をなるべく内々に処理したいという組織防衛の力が働くのは報道にでている関係者の発言からも強く感じられました。真相はいろいろ異なる様々な立場の違った発言より司直の捜査結果が明らかになるのを待つべきで、そのうえで被害者をまもり、相撲界、力士やファン、横綱についてこれからを考えるべきなのではないかと思うのですが、報道途中から貴乃花親方への批判や疑問、処分の問題にまで発展してきていることが驚きです。
被害当事者の貴ノ岩、親方の貴乃花が沈黙を守っていることから、いまだ貴乃花サイドの見解はみえていませんが、場所が終わり、司法の捜査も一段落した時点であきらかにされるのではないか、そうしてほしいなあと一視聴者としては思います。
 今度の問題を通して、組織防衛として働く力が真実や理想から遠いこと、多数の原理の民主主義が簡単に全体主義になりうること、「なぜ貴乃花親方が処分の対象になるのか」というネットの記事に分析されているような社会風土、経営体質など今の社会の問題と同じであると感じました。

 報道も興味本位で憶測や勘繰りレベルの報道をしますから、簡単に世論が誘導されます。物事や政治を見る勘のようなものをひとりひとり鍛えないと戦前のようなファシズムもないとは言えないと思いいました。
     
      次回続きます。



 
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意識、無意識、認識 [生きるを考える]

 なぜブログを書くのか、以前も書きました。今もなぜブログを公開するのだろうと自問することがたびたびです。なにも自分なんか改めて書く必要があるのと責めている自分がいる。その自分にもう一人の私が、百人の人間がいるとしたら、百人の個人が居てその百人で社会は成り立っているのだからすべての個人が大切。昔は物言わぬ農民という言葉があったし物言わぬ庶民といってもいい。なにひとつ、ものをいうことなく歴史のなかからきえる。間違っているかどうかや正しいことを言うかどうかではなく、一人ひとりの意識、存在から社会は作られている.。
だから、日記のような自問自答でもほかの人と共有する意味があるのでは?と責めている自分にいいます。そんなわけで、今日もこの頃感じている全体主義に関係して思うことを書きます。
 今、日馬富士の貴ノ岩暴行問題をめぐって報道が過熱しています。宴会の席での貴ノ岩暴行は警察へ被害届がされ、司法の下での事件の真相解明調査が行われていますが、様々な報道の推移をみると暴行事件の事実関係解明だけでない、別の問題が表面化してきているようです。
 暴行事件の経過と貴乃花親方の行動とに私は不信を感じません。黙っていることが当然と思います。問題は二つ、一つは暴行事件そのものの事実の解明、もう一つは相撲協会の問題。一つ目は事実関係は司直の手による解明を待つべきではないでしょうか。貴乃花も捜査にゆだね、協力する姿勢でしょうから、外野であれこれいう必要はないのでしょう。
二つめは相撲界の在り方や協会の在り方をめぐる問題、こちらの問題が本当は難しく、事件の背景にも関係しているのかもしれないと思います。
 この間の報道に感じた疑問です。ここでとりあげたのもそのためです。報道に世論操作や世論を作るような報道のされ方があるのを強く感じることです。世論というある意味とらえどころのないものによって政治を動かすことはさかんにおこなわれていることだと思います。過去もそうです。苦い経験があります。戦争も作られた世論によることをしっかりかんがえなければならない。
今回の日馬富士暴行事件では今は理事の一人である貴乃花親方への非難に切り替わっている感さえあります。
 
 格闘技にはあまり関心がないので相撲のことはよくわかりませんが、日本の伝統的な国技の位置を持ってきた相撲ですから、相撲道のような理想が追求され、そのことを通してファンを獲得し、若者を引き付けてきたのでしょう。これからも相撲の発展存続にはそれなしにはあり得ないでしょう。相撲界のこれからの問題なのだとしたら、拙速な解決にはならないのではと思いました。

 
 先日、TBSの一番だけが知っているという番組で磯田道史さんが斎藤隆夫の色紙について語られていました。又過日、NHKBSスペッシャルドラマで沖縄の返還公証人というドラマをみました。沖縄返還交渉にあたった外交官の物語でした。歴史のスピード、リアリズムの前に個人は屈服し打ちのめされるという、個人は時代に負ける、しかしその行為や存在は無意味ではない、社会はそれによってすこしずつかわっていくのだといった坂口安吾の言葉を思い出しましました。
醍95回国会でただ一人、無謀な戦争批判をし、聖戦を冒とくしたとして議員除名になった斎藤隆夫や沖縄の本土並み返還交渉にあたった外交官のように全くの孤立無援世論の味方なしに自己の信念に従った人が存在したのは驚きです。これという特別な力や能力を持たない個人であるわたしはなにをしたらよいのかと思います。

 そして思うことは社会のなかの自分という問題です。
 このことについて次回続きを書きたいと思います。
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難しい時代に。 [生きるを考える]

 すべてが単純ではなくなりましたね。素朴とかシンプルとか、遠くなった? カオスの時代?
昔は真理、善、美とかいう言葉をよく聞いたように思うけれど今は死語になったのかと思うくらい聞くことがなくなりました。あまりに現実が際限なく広がってしまったからでしょうか。認識する主体が浮遊物になってしまったかのように? こんな時こそ自分に見える事実から出発して自分をはっきりさせるところから始めたいと思いました。
 

 majyoさんのブログにこんな言葉が。
  良心の異常な欠如
  他者に対する冷淡や共感のなさ
  慢性的に平然と嘘をつく
  行動に対する責任がまったくとれない
  罪悪感がまったくない

 こんな人が多くなっているのでしょうか。そうだとしたらなぜなのでしょう。
 またmajyoさんが同じブログで発達障害について書いています。
 私も親として難しいと悩みいろんな本を読んだり、いろんなお母さんとグループ討論したりそう いう時間を過ごしました。今思い出すことがあります。
 息子と現実と希望について議論になったとき息子が「僕は希望のために生きるのでなかったら生 きる意味がないと思う」といったのです。彼がその時言葉にした希望とはどんな意味か不明で  す。それに対して私は「私だって希望は失っていない。しかし現実はあるし現実は無視できない もの」というようなことを言ったと思います。あなたは現実を無視していると心の中で非難する 気持ちがあったのですが、彼はこの時二十歳前後だったと思います。彼の言葉の意味が今私には 痛いです。
 希望などはどこかにおいて来てどこにもないと思うようなところにいる、それが若い人だけでな
 い大人もでしょうか。 希望はみな一人一人違うと思いますが、真、善、美の三つがそろうとこ ろを人間は究極でねがっているのではないでしょうか。



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本は一番の友達 [生きるを考える]

 わたしには本が一番の友達です。なぜかというと、普段の日々の生活では知ることも出合うこともない人や世界や時間に出会うことができるからだと思います。自分にとってとてもいい本だと思う本に出合うのは必ずしも簡単ではないですが、「求めよさらば与えられん」自分に探したり求めたりしているものがあるとどこかで出会える、それもそれほどのお金や難しい条件がなくて可能だから一番手っ取り早い、ありがたい存在です。環境に恵まれなくても本を読める機会はいまはあちこちにあります。
 本を読む習慣は仕事と子育てに手いっぱいだったころ無くなっていたので、習慣が戻るのにちょっと時間がかかりました。
 たくさんの本が必要だとはわたしは思いません。なんどもなんども読むたびに新しい発見や気付きがあって、生活や人生の疑問に沿って一緒に考えたり答えをくれたりしてくれる本。そんな本の一冊が世界的な免疫学の大家である安保徹先生の「病気は自分で治す」という本でした。
 仕事を辞めた理由の一つがこのまま仕事は続かないという健康についての自信のなさでもあったのでその頃目にしたのがこの本でした。
 なぜ病気になるのか、体と心の仕組み、読み進むうちに目からうろこの落ちる思いでした。でも一度読んだくらいでこの本の深さは理解できませんでした。
 当時はまず吐き気を伴うほどの肩こりや頭痛、体をまっすぐにできないくらいの背中や腰の痛み、過敏性大腸炎など、体の不調がどこから来るのか、体の仕組みを少し理解するようになって、どういうところを改善したらよいかちょっとわかったくらいでした。
 しかし、今、原因不明の病気や理解が難しいような事件、心の不調とか闇などの解明にも手がかりをあたえてくれている本だと思いました。もっとゆっくり読んで勉強したいなと思っています。
 お会いしたことも、お話を直接聞いたことのない方ですが、この本は私の先生、良き相談相手、勝手にそう思っていてすみません。ほかにもいっぱい先生がいます。





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力について思う。慰めにふたつの言葉 [生きるを考える]

 雨の中を図書館に、頼んでいた本が用意できたとの知らせがあって出かけました。新聞の広告で見て読みたいと思ったのですが、図書館では順番待ちとのこと、文庫本が出たというので購入しようかなと迷っていたところなので出費をおさえられてよかったです。[わーい(嬉しい顔)]

 この本に限らず、最近は極力購入を抑えています。図書館で借りることができるのはとても助かるのですが、今朝家事をしながらニュースを聞いていたら、ああ、同じと思わず注視してしまった本がありました。
「しんさいニート」カトーコーキーさんの漫画のようです。これは買おうと思いました。これから本を買いにいくつもりです。

 力についてずっと考えていました。力といってもいろんな力があります。自分はずっとどうしようもないくらい非力だと思ってきたのですが、どんな力がないのか、どんな力が必要だと思っているのかずっと自分に質問し続けていました。

 「新しい憲法の話」という小冊子が昭和22年8月文部省から発行されています。
 読まれたことがある人もあるかもしれませんが、憲法問題が大きな問題になり始めています。憲法を全部しっかり読んだことがないのでこれから読んでみようと思っているのですが。
憲法の前文は私には理想です。

 どんな力が必要なのかに関係して、以前読んだことがあるロマン・ロランの「ベートーヴェンの生涯」を引っ張り出して序文を読んでいます。

 思想もしくは力によって勝った人々を私は英雄とは呼ばない。私が英雄と呼ぶのは心によって偉大だった人々だけである。彼らの中の最大な一人、その生涯を今ここに我々が物語るその人が言ったとおりに、「私は善以外には卓越の証拠を認めない」人格が偉大でないところに偉人は無い。
偉大な芸術家も偉大な行為者もない。あるのはたださもしい愚衆のための空虚な偶像だけである。

 ここに物語ろうと試みる人々の生涯は、ほとんど常に永い受苦の歴史であった。
 悲劇的な運命が、彼らの魂を肉体的な又精神的な苦痛、病気や不幸やの鉄床の上で鍛えようと望んだにもせよ、あるいは彼らの同胞らが悩まされている様々の苦痛と屈辱の有様を彼らの心情が感じ識ったことによって引き裂かれ、それゆえに彼らの生活が荒寥たる観を呈したにもせよ、とにかく彼らは試練を日ごとのパンとして食ったのである。
、、、彼らが力強く偉大だったとすれば、それは彼らが不幸を通じて偉大だったからである。だから不幸な人々よ、あまりに嘆くな。人類の最良の人々は不幸な人々とともにいるのだから。

 彼自身その苦しみのただなかにあって祈念したことは、彼自身の実例が他の多くの不幸な人々を支える力となるようにということであり、「「また、人は、自分と同じく不幸な一人の人間が、自然のあらゆる障害にもかかわらず、人間という名に値する一個の人間となるために全力を尽くしたことを識って慰めを感じるがいいがいい」ということであった。
、、、われわれ自身があまりに弱い時には、われわれの頭をしばらく彼らの膝の上にのせて憩わせようではないか。

 これらの言葉は書物からの抜粋です。

 人の痛みを感じない冷酷や排除や支配、偉大さのない物質主義や享楽的利己主義、そういう力が強大に世界や暮らしの中に影を落とす中で窒息し、死にかかっている心。生をつなぎ理想を求めながらも日々の暮らしには慰めが必要です。身近な足元からフローな気持ちで努力し臨みたいですね。

 これは以前の「慰めに二つの言葉」を書き改めました。
 
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現代社会の中の親子、家族について [生きるを考える]

 先日gonntanさんのブログで自民党文部科学部会で法案が了承されたので家庭教育支援法が国会に上程されるのではないかという記事を読みました。関心の深い問題だったので、この法案についてネットで調べてみました。

 
 今調べた範囲でこの法案の経緯について記すと。


 教育について最も基本になる教育基本法が平成18年12月15日第165臨時国会で成立、改正された現教育基本法では第十条に「家庭教育」を盛り込んでいます。
ここで家庭教育の役割の重要性をうたい、国と地方自治体が家庭教育を支援していく必要性を強調しています。
 国会の審議に上程されようとしている家庭教育支援法案は教育基本法の精神にのっとり、、、国及び地方自治体は家庭教育を支援するために必要な施策を講じるよう努めなければならないという条文に沿って法案作りが進められているもののようです。
 法案作りは自民党と文部省内部の両方で行われてきたようですが、自民党の法案作りとその経緯をみるとこの法案の意図がはっきり見えてきそうです。

  法案作成のこれまでの経緯もふくめて、広田照幸氏「昔の家族は良かったなんて大ウソ,自民党保守の無知と妄想」に詳しくまとめられていて参考にもなり、共感もしました。参考に読まれることおすすめです。それでこのあと私が感じていることを中心に書きたいと思います。

今回の衆議院選挙での自民党は
 小選挙区 得票率48%、議席数75% 218
 比例区  得票率33% 議席数     66
 全有権者にしめる自民の得票率は小選挙区で25%、比例区17%
 投票率53.68%で、一番国民の支持率が現れると思われる比例区選挙ではわずかに17%ですが、選挙後の国会の議員数では6割強です。
 この数字を見れば国民の意思が正確にはを議席数を反映していないことがわかりますが、自民党の勝利感は政権運営にも影響を与えるでしょう。
 こうした選挙結果を受けて私はとても心配なことがあります。

 先日から「貧困のなかでおとなになる」という本を読んでいたのですが、関連するいくつかの数 字をあげようと思います。
 
 6人に一人が貧困家庭で育つ
一週間に一人が虐待で命を奪われる
 5日に一つの学級がなくなる人数の高校中退者(一学年6クラス40人学級と想定して計算)

 この数字、文部省の統計でも確認しましたが、驚きました。胸が痛くなるような数字です。
 これら以外にも暴力事件、喫煙や飲酒、いじめ、自殺、非行など子どもたちが育つ環境が厳しいことをしめしています。親、学校、社会はすべての子供たちに成長を助け、次の時代を担うことのできる成熟した市民を育てる役割があると思います。
 しかし、貧困の問題一つをとっても、単にお金がないから欲しいものや必要なものが手に入らな
い不便さではなく、お金がないことから始まる孤立、あらゆる情報から疎外され学業不振、学力 の遅れを立てなおせない環境、夢を持たないという自己防衛、学力や意欲だけでない健康格差ま でが育つこと、生きることを奪っている現実をあきらかにしています。
[貧困の中で大人になる」の著者は「私も始めは子どもの貧困が見えていなかった、社会は見えていないのか、あるいは見て見ぬふりをしている。問題の背景を考えることを意図的にか無意識にかやめてしまっている人が多い」といっています。

 これらの問題の原因を安倍首相、安倍政権をささえる勢力は一貫して戦後の民主主義、民主主義
教育に求めてきました。 安倍総理の教育改革は戦前の教育に戻すことをめざしています。
 総理の「新しい国へ美しい国へ」はどのようなものでしょうか。自民党の親学推進議員連盟と文部省とで成案をえたといわれる家庭教育支援推進法の内容はまだわからないのですが、安倍総理のこれまでの一貫した考えは短絡的で考えることをさけているとしか思えません。

 
  人権の考え方は時代とともに進んできた考えだろうと思います。また経済や文明の著しい発展 もありました。一昔前とは異次元の変化です。これからも変化し続けるのかもしれません。しか し経済発展も科学技術、物質文明の発展もひずみとともに限界に近付きつつある、そういう問題 に世界が直面しているのだろうと思います。
 日本社会を席捲してきたグローバリズムのなかで、低福祉、低負担、自己責任(小さな政府)で 市場への介入を避け放任する「新自由主義」政策がとられ(厳しい世界的な経済競争下でやむを 得ない側面はあったのだろうと思いますが)弱肉強食と自己責任が急速に社会に広がりました。 個人の自由権利は弱肉強食と自己責任になり困難を抱えている人を攻めてしまう、攻撃や排除に つながる冷たい社会へ、困っていること、困っている人の力になる共助を失っています。当然あ るべきセイフティネットも壊れてしまっています。

  主体的な個人の育成と個人の尊重と共生の社会の上に築かれる発展を目指そうとして出発した戦後が国家の統治の下での家族や教育を考えるべきという考え方へ回帰しようとしているように思います。
 国家統治への回帰は(日本会議や親学議員連盟など国家主義的保守勢力)主体とか自由、公共についての認識の問題がちがうように思われてなりません。それは統治する立場からの発想で同時にときには権力の維持や自己利益、保身につながる危険もある発想ではないでしょうか。
国家権力はときに残酷です。問題の本質を隠します。人は誰でも現状維持や安心をもとめ保守的になるといわれます。安心したいし、不都合なものは見たくないのです。が現実を見ないと危険も見えないことがあるでしょう。

 心の闇ともいわれるようなニュースをどう考えたらよいのか、武力や軍事力、力の強弱に頼る世界をよくする答えがあるのかはっきりとした答えはわかりません。真実や勇気ややさしさを求めてさまよう人が小さな勇気ややさしさに出会えたらいいなと思います。

家庭教育支援法の中身がどのようなものか私はまだ知らないのでこれからの推移を見ていきたいと思います。
 
 

 

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人がいう、超非現実的理想主主義と現実主義 おもうこと

 安倍総理が臨時国会での冒頭解散を表明しました。なんでも「国難突破解散」なのだとか。
超気分が落ち込みます。なぜ今解散しなければならないのか理由がない総選挙でどれだけの税金が使われるというのでしょうか。
 国難を作っているのはあなたではないですかと言いたい。
今度の突然の解散には政権が考える隠された理由があると思います。一つは第二次安倍内閣の成立いらいの安倍政権の政策への疑問、特に国政の私物化や国会軽視や憲法破壊などへの疑問、不信をかわさなければならない状況ともうひとつはアメリカと緊密な連携の上で、日本がアメリカの同盟国として戦争に参加できる(憲法改正にもっていくことを目指したものと私は思います。二番目の理由のほうが解散をきめた理由かもしれない。北朝鮮との緊張と野党の力不足という今をおいて一挙に進める好機はないと日米の考えが一致したのではないでしょうか。
 日本がそうなってほしいアメリカの理由はどこにあるのか。日本がこれからアジアや世界とどういう付き合いをしていったらよいのかという課題とともにしっかりみていきたいところですね。
正月明けあたりが、、、と言われている北朝鮮問題情勢も日米の考えの上で決められていると思います。
 国民は黙ってみているしかできないということは悲しいことですが遠回りでも時間がかかる、国民がしっかり見て判断する力をもつしかないのかもと思います。
 希望が日本中にいきわたる、希望の党、美しい日本なんと感覚的は標語があふれているのかと思います。情感に流されるだけにとどまる国民性の自分の感性の中にもっと物事の必然的理を見ようとする努力が必要なのではと思います。

 とても個人的な意見なのですがよく戦争放棄は理想主義にすぎないといわれますが、それでは戦争は認められるのですかと。どこの国と組もうが戦争は絶対にしてはいけないということをはっきり目標に掲げるべきと私は思っています。
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