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簡単に迷いだす [雑感]

 もともと記憶力がいいわけではないのですが、年にともに明らかに記憶がなくなることが多くなっています。前回書いたブログの中の書名、「日本は大戦にまきこまれる」は不確かなのでメモがあるかさがしていたのですが、正確な書名がわかりました。「日本に恐ろしい大きな戦争が迫りくる」副島隆彦著 講談社 2015です。出版アメリカ大統領選がまだ終わらない前に書かれていますが、現在の状況を見ると一段と世界の動きは不安定さを増しているようにみえます。北朝鮮を巡る動きは危なっかしいです。どちらかが先に武力を用いなければ戦争にはならないはずですが、相手を倒す理由を見つけると武力を使ってもやっつけなければならない、世界がこういうことの繰り返しをしているのはわたしにはやりきれなく思われます。

 稲田朋美防衛庁長官は「戦争は霊魂の進化に必要な宗教的行事、それが私の生き方の根本」「靖国神社というのは不戦の誓いをするところではなくて、祖国に何かあれば後に続きます」と誓うところでないといけないということをいっているそうですが、これは伝聞なので正確かどうかわかりませんが、最初戦争は霊魂の進化に必要な宗教的行事というに至ってはええーっと理解できませんでした。祖国防衛とか戦争とかが稲田さんにとって大変重要なものなのでしょう。
 元に戻って先の本を読んだとき、日本の安全が脅かされると浮足立って右往左往するのではなく、冷静に足元から平和について、暮らしについて考えたいと思いました。

 昨年後半のノートをくっていたら、今も頭のなかをくるくる旋回している疑問に対する答えのようなものにぶつかりました。
親ってとか、家族とか、親としてずっと考えました。自分が考える善悪とか、何が本当で何が嘘なのか、とかをはっきりつかみたいという欲求はあるのですが、その反面でそれは無理だよとか無駄だよとかいう声もどこかでするのも事実なのです。えー、どっちよと思うのです。それに対する答えかなと思う、読んだ本のなかのメモに出会いました。

 完成に持っていく可能性、苦しみ自体は決して無意味なものではなく、苦しみに打ち克つ過程のなかに人生における喜びを見出すことができる。
 年を取るということは個人的な経験を累積すること、永遠の生命というものは、人が年老いていくという過程のなかにつきとめることができる。
 これどんな本からのメモかはっきりしません。

 「知能とは、答えのある問にたいして速く正しく答える能力、知性とは答えのない問いに対して問い続ける能力」これは朝日新聞リーダーたちの本棚に乗っている千葉大学長徳久剛史氏の言葉
 
 親ってとか、家族とか、理想とか希望とか、善悪とか考えることは生涯を通して無意味ではないのです。気ついたところでどうすることもできないのだから、気つくこともしたくないというのは間違いだと思いました。しかし努力は完成形ではなく、不確かなものなのだと思います。

 誰も努力することに意味がなくはないのだと得心できたように思いました。




 



安倍内閣のおごり

 今大変注目されている森友学園の問題、なぜこんなに安く国有地が売却されたのか、この疑問から始まったことでしたが、かなり全体像が見えてきたように思います。
 本質的なことは明治欽定憲法下の戦前の日本に回帰しょうという戦後一貫してある政界の一部と民間の草の根右翼運動がそうした教育を実践する小学校として森本学園の建設に動いたことだと思います。いみじくも自民党の質問者として立った西本議員が「問題はあなたに十分な資金がなかったのに学園を建設しようとしたことではないですか。資金が十分なら今度の問題は起こらなかったのです」と籠池氏に質問していますが、大きな力か神風かに頼ることなく教育内容が現在の教育基本法に照らして疑問のある内容であってもすっきり認可され、開校の運びになっていただろうと思います。開校を率先して後押ししたい何らかの力が働いて違法な国有地の売却と認可を進めたところが住民の目に留まり、次第に疑問点があきらかになってきたということです。安倍政権の誤算は人の目に留まることなく(問題になることなく)官の力で進められると考えていたことではないかと思われます。こういうおごりは誰も異議をさしはさまない安倍一強の自公政権の中での一旦にみえます。
 権力の集中による腐敗は国の力を弱めることにしかならないと思います。
 ある女性はこんな大人の姿、不正ばかりみせられていたら子供たちはどう育っていったらいいかわからない、かわいそうで仕方がないといっていました。現実を見せないようにしたほうがいいのか、それとも現実を見てしっかり判断できる力を持つようにしたほうがいいのか悩みますね。

 考えなければならない重要な問題はほかにもあります。
 今回の国会の証人喚問の質疑を見ていて、籠池氏が進めたいと思っていた教育について。彼は学園の設立に情熱をかけていて、その趣旨に心を一つにして力を貸してくれると信じた人たちから手の平を返されたということが本当なのだろうと思ったのですが(その意味では籠池氏諄子さんもお気の毒な気がします)、その教育が現在の教育基本法、戦後教育勅語が完全に廃止されたことと相違していることです。
 わたしは法律を無視するわけではありませんが、法律一辺倒、第一でもありません。しかし、教育勅語がなぜ廃止されることが重要だったのかは歴史の中で生きている今の私たちがしっかり吟味し心にとめなければならないことではないでしょうか。
 教育の問題について感じていることを書きたいと思うのですが、広範で多岐の問題、生きるということと直結する問題だと思うのでなかなか書けません。
 
 

時流 [雑感]

 かっこいい父親というのは難しい時代になったのかなと思います。昔はよく背中をみせるといわれた。しかし今は父親も変化を求められているように思います。家族が力を合わせたり支えあって助けられるようなコミュニケーション力も求められているのかもしれない。男性にも女性にも父親的役割と母性の役割の両方が必要なのだと思います。
問題は父性の役割が今とても難しい時代なのではないかということ。

 今、大阪豊中市にある森友学園の国有地格安払下げ(大阪だけでなく他にも同じようなケースがあるようです)を巡って国会も巻き込む大きな問題になっていますが時流ということを強く考えさせられました。
なぜ森友学園の建設が特別な扱いを受けたでしょう。わたしはこういう小学校、ひいては中学さらに上級学校の建設を日本に必要と考える人達の力、政治家抜きには考えられないと思います。安倍首相も首相夫人もこの幼稚園教育を素晴らしいとほめたたえています。幼稚園で教育勅語を素読させたり、「日本を悪者として扱っている中国韓国が心を改め、歴史でうそを教えないようにおねがいします」「安保法制国会通過良かったです」などと運動会の選手宣誓で発言させているなどこれが幼稚園児が本当に考えることなのでしょうか。 
 おりしも自民党は首相を三期続投してもよいという党則を決めたそうです。
 時の流れ、動きが世界中なぜか怪しく思われます。「日本に恐ろしい大きな戦争が迫りくる」(副島隆彦著、講談社、2015年出版)という本を昨年読んだことがありました。そのときは書かれている内容をあまり信じたくありませんでした。しかし、ニユースに接しながら日ごろ感じていること、世界の動き、何が起こっているのか、どんな力が働いているのかを理解するのにとても参考になりました。でもこんなときほど、冷静な思考が必要だと思います。


 父性と母性は現実の父親母親ではなく、広辞苑では父性を父として持つ性質と書いていたりしますが良しあしとか規範とか物事を分ける働きであり、母性は逆にすべてを同じものとして保護する働きで、人の社会には父性と母性の両方が同時に必要なのだと思います。それは一人ひとりがみな違い、国や集団も、状況もすべてが同じではなく異なるがゆえに、良し悪しなどを区別することと受容し保護することはどの生命にとっても必要なことです。
 日本は長いこと母性的性格の強い社会といわれてきましたが、今はどうでしょうか。超父性社会になっているのではないでしょうか。
その超父性社会を維持するための精神的機構が戦前の超国家主義教育の復活なのだと思います。教育の問題は簡単ではないので別の機会にゆずりたいと思います。

 
 


2017.3.1 [雑感]

知性の劣化とも思えることがなぜ進むのでしよう。

 家の中に理解者がひとりもいなかった
 親はなにもしてくれなかった
 孤独で押しつぶされそうだった
 友人、知人がほしかった
 すべてが文句にしか聞こえなかった
 自立したくても自立の方法を知らなかった

この叫びは引きこもっていた子供たちが当時を振り返った時の言葉だそうです。今もこうした心の叫びを抱えている子供や大人がいるのではないかと思います。こんな悲痛な叫びを考えるととてもたまらないし、こうした叫びを知らなかったり、無視したり、本人の問題としたりしてしまうとしたらなんと薄弱な世界でしょうか。今ある本を読んでいるところです。出版大賞を取っているそうですから多くの人に読まれているのでしょう。まだ途中で最後まで読んでいないうえに内容をしっかり吟味しているわけではないのではっきりした感想とは言えないので,書名も書きません。しかしとても疑問をたくさん感じました。

結論が不愉快なためではありません。どんなに不愉快な結論であってもそれが事実や真実ならそれは仕方のないことだと思います。しかしそれが真実であると結論するには慎重な、さらに謙虚な検討態度が必要だと思います。

 社会の進歩においつかない知性の劣化ともいえることがなぜ進むのでしょうか。一つはアイデンティテイをどう考えるかと関係するのかもしれませんが、釈迦が生きていた時代と現代ではとてつもない変化です、ただ人間が人間でなく別の生き物になったわけではなく人間という生き物である本質には変わりはなく、人間社会を変化発展させてきたのはその人間です。その人には二つの側面があります。人という個体、生き物である本質と社会の中にある、社会に帰属しているという二つの側面です。そのバランス、個人にとって良いバランスであるかどうかの問題が知性ではないでしょうか。しかし社会の変化発展は個人という人間を超えて発展するので個人が壊れていく。もっと生き物としての自然性が回復されなければならないのではないかと思うのですがどうでしょうか。


まともに生きていきたいという気持ちが、、、

私は悲観的過ぎるのだろうかと思う。文明の進んだ現代社会がより幸福な社会になったとばかり肯定することができない気がする。人が希望や光を求めて努力していることは確かなのだが、それにもかかわらずなのだ。
まともに、人々の中で助け合って生きていきたいと思う心がなんと障害されつぶれていくことか。つぶされていくとしたらそれは個人の弱さと自己責任ということも可能なのかもしれない。特に自分を守れるような社会的人的資源も持たない弱い個人がつぶされていく心を他人のせいや社会のせいにしようとは思いたくない。なぜなら誰のせいなどと因果関係を見極めることは不可能なのだし、因果がどのようなものであっても結果が及んでそれを引き受けるのは自分なのだから、精一杯自分の心を大切にしなければならないと思う。自己責任というのは自分に原因があって、その因となったものに対して結果としての責任をとるということだけでなく、自分にかかっていることを引き受けて生きなければならないのが人なのだと思う。

待望の本?

 新聞の広告欄にあった一冊の本、さっそく購入しました。『孤独論』田中慎弥。「逃げる」は負けではない。自分を取り戻すための究極の手立て。あなたは今のままで本当に幸せですか。自分の人生を自分の足で踏みしめようとしたことがありますか。人生の手ごたえはそこにしかないと思います。

 そう思います。ほかに新刊を二冊買いました。本当は極力支出を抑えているのですが、今自分が一番必要と思うものなら仕方ない出費ですね。
数日かけて読んでみようと思います。

2017-02-19 [雑感]

 本当のところ葛藤の多い苦しい何十年かだったと思います。今朝の朝日新聞4面にとても力強いと思った論評が載っていました。
実はこのところ新聞もろくに読んでいなかったのです。一番恐れまた避けたいと思っていたことが起こってしまったためです。苦しんでいたのもこうした事態を避けたいためでした。いまとても悲しいし、自分の力のなさも思います。しかしそれは私の事実で、私の周囲の現実なのだと思っています。だからそのことに向き合わなければならないと思っています。具体的なことはインターネット上なので書くことは避けたいと思います。
 ところで新聞の論評のことに戻りますが、日米首脳会談からのトランプ氏と安倍首相について二人の「嗤う」が板についているという点で二人は非常に類だということ、人を馬鹿にしたり見下したりしてついつい笑ってしまうということは普通にあるけれども、二人の「嗤う」はステージがちがう、あざけって笑う、さげすんで笑う、お前は無力だ、お前のやることは何の価値もないという軽蔑が含まれていると書いていますが、私も安倍首相の口もとに表れる笑い、また質問に対しての受け答えのなかにはとても嫌な傲慢ともとれるものを感じることがあります。しかしこの権力者の嗤いを痛快で頼もしいと感じる人も少なくないのでしょう。嗤いは嗤いを、軽蔑は軽蔑を増長し社会は一層すさんでくるという指摘もその通りなのだと思います。
 嗤われるのはなにか。数の力という「現実」に抗し、理想に近づけたいという願望、現状への無批判な無限の追認にさからう力などです。理想なんて1円にもならないきれいごとだとそうとらえたら仕方ないになります。そうした考え方が過去の戦争の歴史、泥沼にもつながったのでしょう。
同じ朝刊の読書欄、理想と現実のギャップに「幻滅」の連続という17歳の高校生の質問に荻上チキさんが回答している記事にとても共感しました。
 現実の社会に対する幻滅か、なかなか自分の中の理想に追いつかない幻滅かはっきりわからないが、勉強は人生を豊かにしたり、社会を変えたりするためのヒントを与えてくれる。これまでの幻滅は、これからその幻滅を無くしていくために何を勉強すればいいのかを見つける糧になってくれる。たくさん幻滅したからといって、これからの自分に幻滅する必要ないという回答者の言葉、それはそっくり幻滅を味わっている自分がその幻滅を通して先に進もうという今の私の力にもなるものでした。



いるとあるの違い [雑感]

 何に書いてあったのか、はっきりしなくなっているのですがいるとあるは違うと書かれているのを読んで、居ると在るの違いについて時々考えていました。そして最近報道などを身ながら感じたことです。
例えば公園に何人かの子供がいたとしましょう。三人とかあるいは五人とか数えることができます。しかし三人なり五人なりそこにいる人数は分かっても一人ひとりが居る、存在しているその中身の在りようまでは分かりません。
意識し可視化できる場合のことは「ある」で、存在しているらしいけれども意識したり認識にまでたどり着かないものを「いる」と考えることもできるのでしょうか。目で確認できる、あるいは表面的に見えるものは誰にも分るのだけれども、表側から見えるものだけではない見えないものがこの世界には多く、この社会を作り上げているものなのでしょう。

 さきごろ、原発事故の被害によって福島を離れなければならなかった小学生が移住先の同級生の何人かから賠償金があるだろうとお金を出させられていたという事件がありました。この事件について横浜市の教育長がお金は生徒が自分で納得して提供していたのだからいじめではないというコメントを出したということが報道されていました。この教育長は表面だけをみていると思いました。このように表れている表だけ、その一部分で物事を判断することが教育の重要な仕事をしている人にあるのはとても驚きでした。いや社会のいろいろなところにこうした目に見えるものしか見ない傾向は広がっているのかもしれません。
 これは何を意味しているのでしょうか。

 トランプアメリカ大統領の就任から、人類終末までの時計の残り時間が3分から2分30秒にかきかえられました。トランプ大統領が核兵器の使用も辞さないという姿勢を示したこと、地球温暖化を抑える政策に同意しないと表明したことなどによって、終末までの時間が短くなったと考えられたようです。
 1987年、米ソ冷戦下で核兵器が使用されてはならないと恐れた当時の世界の指導者によって中距離核戦力全廃条約が調印されましたが、その時のソ連共産党書記長だったゴルバチョフ氏が、今年になって「政治の軍事化、新たな軍拡競争」に警鐘をならしています。
 
 危機はなぜ生みだされるのか、どうしたらこうした危険な状況を変えることができるのでしょう。誰もが一番苦慮しているのだと思います。軍事予算を増やし、力による抑え込み、危険の防止策も過激派ISのテロ、欧州の難民問題、格差の拡大と貧困などの解決に無力なことを示しています。しかしその政策が唯一有効な方法だと信じたいと思う人は少なくないのかもしれません。

 もともとなぜ危機は生まれるのでしょう。人と人がなぜ危険なのか、それをはっきり知ることから始めれば問題の解決は近くなるのかもしれないと思います。
誰も命を持つものは生命本能ともいうべき生存本能があり、自分の命を大切に思い、自分がかわいい、だからこの世界に生きる場所がなく否定や排除されることはその命にとっての危機です。自分の命がかわいいように他人も自分の命がかわいいのです。だから自分を愛するように他人も愛せば、自分の事情、相手にも事情があること、一緒に解決しようとするなら危険な関係ではなくなるはずです。といっても様々な条件、過去に規定されている人間は簡単ではないのですね。一人、二人と頭数は数えられてもその人の中身、こころまでは分からない、まして本人でも意識しない無意識の世界や実存の状況には届かない。
 でも終末までの時間の針をもどすためには危機がどこから生まれるのか、なぜ生まれるのかについてもっと真剣に考えてみなければならないのだと思います。

対話について

 
  対話とは何だろうかと考えてみると他人と自分との対話というより自分と自分との対話、自分の中のもう一人の自分との対話のほうが大きいと感じます。もう一人の自分が自分をいつも見つめているというのか、小さい頃からそのためにかなり自意識過剰だったような気がします。
子供が生まれたとき、はじめて親として自分とは別の存在としての子供と親としての自分のかかわりのようなことをずいぶん考えさせられました。自分ひとりと直接社会だったものが、もう一つ、親子とか家族ということが加わったというような。今はまた孫が生まれたことで、親と子、親と子と孫と社会とか世界とかになって、私自身はいつ消えてもいいようなものなのですが、孫を通して考えることも多くなって、政治にかかわる発言はあまり好きではないのですが、黙っていてはいけない気持ちにさせられてしまいます。

 泥がなければ花は咲かないという本を今読んでいます。著者は曹洞宗の「大教師」の尼僧です。苦しみや悲しみという泥、それが原因となって、その苦に導かれてアンテナが立ち、よき師、よき教えという縁に出会うことで、泥は肥料と転じ、美しい花という果を咲かせる。「苦しみがわたしを救う」は、泥はアンテナを立てよという仏様の慈悲の贈り物だと。そうかもしれないと思いました。アンテナをたて始めたところかなと思います。
 自分との対話は自分と他人についての関心、物事への関心、その他あらゆるこの世に存在するものへの関心、対話なのだと思います。自分の場合は家族とか、暴力とか世界の平和とかに関心があり、自分自身との対話もですが、読書は他人との対話の一番のツールです。新聞の新刊案内を見ていたら、「戦争、暴力の反対語は平和ではなく対話です」という本の新刊案内がのっていました。時期を得た本だと思いました。そのうち読んでみたいと思っているのですが、読みたい本がたまる一方です。

価値観

最近えーっと驚きつつ、ああそうかと半ば納得したことです。
先日「さきどり」というNHKの番組を見ていて若い人を引き付ける「かっこいい」という価値観とアップリサイクルという言葉を聞いて、自分などが考えている「よいこと」とという価値観の違いを考えてみました。かっこいいは良い悪いという判断と無関係ではないけれどより感覚的身体的な快楽、楽のようなものが含まれているようですね。
もったいないからさらにアップリサイクルという感覚、多様化と縦にも横にも歴史や人が行きかう文化、単なる動物的な快楽だけでない自然と人と人の共生を考える、新しい価値観を模索する人達が育っているのだなと。人間に戦争など必要でしょうか。
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