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まともに生きていきたいという気持ちが、、、

私は悲観的過ぎるのだろうかと思う。文明の進んだ現代社会がより幸福な社会になったとばかり肯定することができない気がする。人が希望や光を求めて努力していることは確かなのだが、それにもかかわらずなのだ。
まともに、人々の中で助け合って生きていきたいと思う心がなんと障害されつぶれていくことか。つぶされていくとしたらそれは個人の弱さと自己責任ということも可能なのかもしれない。特に自分を守れるような社会的人的資源も持たない弱い個人がつぶされていく心を他人のせいや社会のせいにしようとは思いたくない。なぜなら誰のせいなどと因果関係を見極めることは不可能なのだし、因果がどのようなものであっても結果が及んでそれを引き受けるのは自分なのだから、精一杯自分の心を大切にしなければならないと思う。自己責任というのは自分に原因があって、その因となったものに対して結果としての責任をとるということだけでなく、自分にかかっていることを引き受けて生きなければならないのが人なのだと思う。

待望の本?

 新聞の広告欄にあった一冊の本、さっそく購入しました。『孤独論』田中慎弥。「逃げる」は負けではない。自分を取り戻すための究極の手立て。あなたは今のままで本当に幸せですか。自分の人生を自分の足で踏みしめようとしたことがありますか。人生の手ごたえはそこにしかないと思います。

 そう思います。ほかに新刊を二冊買いました。本当は極力支出を抑えているのですが、今自分が一番必要と思うものなら仕方ない出費ですね。
数日かけて読んでみようと思います。

2017-02-19 [雑感]

 本当のところ葛藤の多い苦しい何十年かだったと思います。今朝の朝日新聞4面にとても力強いと思った論評が載っていました。
実はこのところ新聞もろくに読んでいなかったのです。一番恐れまた避けたいと思っていたことが起こってしまったためです。苦しんでいたのもこうした事態を避けたいためでした。いまとても悲しいし、自分の力のなさも思います。しかしそれは私の事実で、私の周囲の現実なのだと思っています。だからそのことに向き合わなければならないと思っています。具体的なことはインターネット上なので書くことは避けたいと思います。
 ところで新聞の論評のことに戻りますが、日米首脳会談からのトランプ氏と安倍首相について二人の「嗤う」が板についているという点で二人は非常に類だということ、人を馬鹿にしたり見下したりしてついつい笑ってしまうということは普通にあるけれども、二人の「嗤う」はステージがちがう、あざけって笑う、さげすんで笑う、お前は無力だ、お前のやることは何の価値もないという軽蔑が含まれていると書いていますが、私も安倍首相の口もとに表れる笑い、また質問に対しての受け答えのなかにはとても嫌な傲慢ともとれるものを感じることがあります。しかしこの権力者の嗤いを痛快で頼もしいと感じる人も少なくないのでしょう。嗤いは嗤いを、軽蔑は軽蔑を増長し社会は一層すさんでくるという指摘もその通りなのだと思います。
 嗤われるのはなにか。数の力という「現実」に抗し、理想に近づけたいという願望、現状への無批判な無限の追認にさからう力などです。理想なんて1円にもならないきれいごとだとそうとらえたら仕方ないになります。そうした考え方が過去の戦争の歴史、泥沼にもつながったのでしょう。
同じ朝刊の読書欄、理想と現実のギャップに「幻滅」の連続という17歳の高校生の質問に荻上チキさんが回答している記事にとても共感しました。
 現実の社会に対する幻滅か、なかなか自分の中の理想に追いつかない幻滅かはっきりわからないが、勉強は人生を豊かにしたり、社会を変えたりするためのヒントを与えてくれる。これまでの幻滅は、これからその幻滅を無くしていくために何を勉強すればいいのかを見つける糧になってくれる。たくさん幻滅したからといって、これからの自分に幻滅する必要ないという回答者の言葉、それはそっくり幻滅を味わっている自分がその幻滅を通して先に進もうという今の私の力にもなるものでした。



いるとあるの違い [雑感]

 何に書いてあったのか、はっきりしなくなっているのですがいるとあるは違うと書かれているのを読んで、居ると在るの違いについて時々考えていました。そして最近報道などを身ながら感じたことです。
例えば公園に何人かの子供がいたとしましょう。三人とかあるいは五人とか数えることができます。しかし三人なり五人なりそこにいる人数は分かっても一人ひとりが居る、存在しているその中身の在りようまでは分かりません。
意識し可視化できる場合のことは「ある」で、存在しているらしいけれども意識したり認識にまでたどり着かないものを「いる」と考えることもできるのでしょうか。目で確認できる、あるいは表面的に見えるものは誰にも分るのだけれども、表側から見えるものだけではない見えないものがこの世界には多く、この社会を作り上げているものなのでしょう。

 さきごろ、原発事故の被害によって福島を離れなければならなかった小学生が移住先の同級生の何人かから賠償金があるだろうとお金を出させられていたという事件がありました。この事件について横浜市の教育長がお金は生徒が自分で納得して提供していたのだからいじめではないというコメントを出したということが報道されていました。この教育長は表面だけをみていると思いました。このように表れている表だけ、その一部分で物事を判断することが教育の重要な仕事をしている人にあるのはとても驚きでした。いや社会のいろいろなところにこうした目に見えるものしか見ない傾向は広がっているのかもしれません。
 これは何を意味しているのでしょうか。

 トランプアメリカ大統領の就任から、人類終末までの時計の残り時間が3分から2分30秒にかきかえられました。トランプ大統領が核兵器の使用も辞さないという姿勢を示したこと、地球温暖化を抑える政策に同意しないと表明したことなどによって、終末までの時間が短くなったと考えられたようです。
 1987年、米ソ冷戦下で核兵器が使用されてはならないと恐れた当時の世界の指導者によって中距離核戦力全廃条約が調印されましたが、その時のソ連共産党書記長だったゴルバチョフ氏が、今年になって「政治の軍事化、新たな軍拡競争」に警鐘をならしています。
 
 危機はなぜ生みだされるのか、どうしたらこうした危険な状況を変えることができるのでしょう。誰もが一番苦慮しているのだと思います。軍事予算を増やし、力による抑え込み、危険の防止策も過激派ISのテロ、欧州の難民問題、格差の拡大と貧困などの解決に無力なことを示しています。しかしその政策が唯一有効な方法だと信じたいと思う人は少なくないのかもしれません。

 もともとなぜ危機は生まれるのでしょう。人と人がなぜ危険なのか、それをはっきり知ることから始めれば問題の解決は近くなるのかもしれないと思います。
誰も命を持つものは生命本能ともいうべき生存本能があり、自分の命を大切に思い、自分がかわいい、だからこの世界に生きる場所がなく否定や排除されることはその命にとっての危機です。自分の命がかわいいように他人も自分の命がかわいいのです。だから自分を愛するように他人も愛せば、自分の事情、相手にも事情があること、一緒に解決しようとするなら危険な関係ではなくなるはずです。といっても様々な条件、過去に規定されている人間は簡単ではないのですね。一人、二人と頭数は数えられてもその人の中身、こころまでは分からない、まして本人でも意識しない無意識の世界や実存の状況には届かない。
 でも終末までの時間の針をもどすためには危機がどこから生まれるのか、なぜ生まれるのかについてもっと真剣に考えてみなければならないのだと思います。

対話について

 
  対話とは何だろうかと考えてみると他人と自分との対話というより自分と自分との対話、自分の中のもう一人の自分との対話のほうが大きいと感じます。もう一人の自分が自分をいつも見つめているというのか、小さい頃からそのためにかなり自意識過剰だったような気がします。
子供が生まれたとき、はじめて親として自分とは別の存在としての子供と親としての自分のかかわりのようなことをずいぶん考えさせられました。自分ひとりと直接社会だったものが、もう一つ、親子とか家族ということが加わったというような。今はまた孫が生まれたことで、親と子、親と子と孫と社会とか世界とかになって、私自身はいつ消えてもいいようなものなのですが、孫を通して考えることも多くなって、政治にかかわる発言はあまり好きではないのですが、黙っていてはいけない気持ちにさせられてしまいます。

 泥がなければ花は咲かないという本を今読んでいます。著者は曹洞宗の「大教師」の尼僧です。苦しみや悲しみという泥、それが原因となって、その苦に導かれてアンテナが立ち、よき師、よき教えという縁に出会うことで、泥は肥料と転じ、美しい花という果を咲かせる。「苦しみがわたしを救う」は、泥はアンテナを立てよという仏様の慈悲の贈り物だと。そうかもしれないと思いました。アンテナをたて始めたところかなと思います。
 自分との対話は自分と他人についての関心、物事への関心、その他あらゆるこの世に存在するものへの関心、対話なのだと思います。自分の場合は家族とか、暴力とか世界の平和とかに関心があり、自分自身との対話もですが、読書は他人との対話の一番のツールです。新聞の新刊案内を見ていたら、「戦争、暴力の反対語は平和ではなく対話です」という本の新刊案内がのっていました。時期を得た本だと思いました。そのうち読んでみたいと思っているのですが、読みたい本がたまる一方です。

価値観

最近えーっと驚きつつ、ああそうかと半ば納得したことです。
先日「さきどり」というNHKの番組を見ていて若い人を引き付ける「かっこいい」という価値観とアップリサイクルという言葉を聞いて、自分などが考えている「よいこと」とという価値観の違いを考えてみました。かっこいいは良い悪いという判断と無関係ではないけれどより感覚的身体的な快楽、楽のようなものが含まれているようですね。
もったいないからさらにアップリサイクルという感覚、多様化と縦にも横にも歴史や人が行きかう文化、単なる動物的な快楽だけでない自然と人と人の共生を考える、新しい価値観を模索する人達が育っているのだなと。人間に戦争など必要でしょうか。

現実と主観を考える [雑感]

 昨日はいくつか所用があって駅まで。朝体操と日中の健康教室と合わせて一万歩を軽く超えましたが、急に運動しすぎもどうかなと感じるところもあります。この日増加の一途をたどっていた体重が40キロ代に、二キロくらい減量していることは喜ぶべきことなのでしょうか。

 本やさんで3冊文庫本を買ってしまいました。買わないようにしているのですが。日本会議に関した本と「漱石の思い出」いまテレビドラマで放映中です。読まなくちゃとか読みたいとかいう本がどんどんたまってしまって追いつきません。家の中も少しずつかたずけてはいるもののちっとも進んでいる感がありません。あと一月もしたらすっきりしていたいのですが!
 
 現実と主観の間にはつねに大きなギャップがあると思います。現実を人間の営みをふくむ宇宙のあるままの推移、因となり果となる真理と考えると、人間の主観(自分)は自分勝手な認識や思い込みですから、自分の願いや思うところと現実とのずれや遊離が付きまといます。そして主観は常に物事の真理にうち負かされます。そのたびに自分勝手な主観によらず、自然の理、真理に自分を添わせる以外にないことを思い知らされます。
 
 安倍首相の所信表明演説がありました。その内容をニュースでちょっと聞いただけでよく確かめていないのですが、聞いてもあまり心にしみないから、じっくり聞く気持ちになれないです。
 気になったのは、民主党の蓮舫さんのアベノミクスの検証が必要ではないかという質問に安倍総理が民主党時代の悪口で答えていたことでした。それでは議論にはなりません。

 総務省の8月の家計調査によると一世帯当たりの消費支出は物価変動を除いた実質で前年同月比で4.6%の減少、12月連続のマイナスだそうですが、それは消費できる所得の減少をあらわしているのではないでしょうか。
 
 安倍総理がアベノミクスの成果として雇用の改善をあげていますが、その内容を見ると非正規、不安定雇用の増大で、雇用や働き方がよくなっている実感はありません。先日のNHKで取り上げていた人口減少と消える自治体の不安では、豊島区の場合、区内に流入する人口の大半が20代から30代の若者、年収200万円くらいで将来家庭を持つことが難しいといわれます。そうなると
区が成り立たなくなる心配に直面しています。それは豊島区だけの問題ではなく東京全体、地方自治体でも同じ問題をかかえているということでした。 
 
 
 こうした数字をあげるまでもなく、すべての人とは言わないまでも、国民の少なくない人がアベノミクスは本当にうまくいっているのか、確かに将来に国民に安心をもたらすことができる政策なのかを心配しているのではないでしょうか。

 経済にとどまらず、本当の安心や豊かさはなにかを考えなければならない時期ではないかと思うのですが、そういう時、国の運命を左右する重い立場の総理には、一層の謙虚さが必要だろうと思います。自信に満ちた信念(思い込み)や情念だけに頼るのは危険です。現実と主観ということを考えさせられました。主観は現実の前で打ち負かされることが多いのですから。

今朝の天声人語から思うこと [雑感]

 河上肇さんが朝日新聞に貧乏物語を連載初めてちょうど100年になるそうです。私は貧乏物語を読んでいませんが、天声人語で次のようなことが書かれていました。

 「毎日規則正しく働いているのに、ただ賃金が少ないために生活に必要なものが手に入らない。きわめてわずかな人々の手に巨万の富が集中されつつある。」

 国家有用の材となりうる若者が、貧乏な家庭に生まれたがゆえに十分な教育を受けられないことを河上は嘆いた。学問は決して「過分なぜいたく」ではないのだと。河上は資産家や実業家に人を思いやる倫理を求めた。
 そして天声人語は現代の教育格差に重なる話ではないか、世の中が100年前に似てきたとすれば、あまりに悲しいと。
 

 子供の貧困、親から子への「貧困の世襲化」は始まっています。そして広まってもいます。私は一億総中流と言われる時代に働いていました。あなたは中流ですかという意識調査がありました。大多数の人がはいといい、人々の意識はマイホームへと移っていったように思います。私はそのときなぜか危うい気がしました。失われた10年という言葉を耳にするようになってから30年、先日、友人がこの30年であまり変わったと思えないのだけれどと話し始めたので、私はとても変わった、すごい変わりようだと思うといいました。友人は30年前は多分10代ではないかと思いますので、おそらく物を考える頃はその中にいたのだと思います。
 この30年の科学技術、機械文明の発達はとどまるところがないものだと思います。でもと私は思ってしまいます。なぜか悲しみが積みあがってしまうのです。文明は人間を幸福にしているのだろうかと。もちろん両面があります。富の一極集中、紛争と戦争と対立、分断と憎しみの連鎖、地球環境、自然の破壊の進行だったように思えてしまうのです。共生、和解、平和への努力は続けられながらも。
 
 すべての人にとって、人間の可能性を奪うものを広い視点で考えたいと思います。






利己主義と個人主義はちがう。 [雑感]

前の1.5×4で自己決定について、ちょうどオウム真理教の地下鉄サリン事件などがあったとき柴田翔氏がはたして人間は自己決定に堪えられる存在なのだろうかと自問したのち、しかし、今日でも自分には主体的な自己決定はゆるぎない価値と思うということを言われていた新聞記事を紹介したことがあります。

 戦後民主的教育制度になって一番初めの世代だった私たちが学んだのは民主主義であり、新憲法でした。基本的人権や主権を持つ個人として、しっかり自分で考え、自分の決定と責任を持つ。そう学んだのだけれども自己決定に堪えられる存在なのかという問いは本当に難しい問なのだと思います。

 もともと戦後教育を一貫して批判してきた人たちは基本的人権に反対だったし、昔からの民は公的な権力で統治すべしという考えが強かったのではないかと思います。お上の言うとおり、考えないで何かに頼ることは楽でもあるのです。その中心が国体論で天皇を絶対的統治者として国を治めるナショナリズムは太平洋戦争から敗戦までをたどることになりました。そしてその考えは今も変わっていないし、そういう方向に持ってゆきたいと考える人はいるのではないでしょうか。

 個人主義はしばしば利己主義と一緒に考えられてきました。目に余る権利の主張とも個人の自由は自己の伸長の解放だけれど、自分さえよければ他人はどうなってもいい、結果は自分の責任。自由競争、自己責任にもつながってきた。今はそれがいびつな世界にもつながっているように思えます。
 
 わたし個人の感想ですが、個人が一個人だけで生きることができない他者との関係の中に生きる存在であれば他者を抜きにして幸福はないと思うし、公的な空間、共生はないのではないでしょうか。個人主義は自分と他者の関係の上に立った自己決定であって主体性的個人の意味で政治にも社会にも参加し、責任ももつことだと思います。犀の角のように独り歩めというシャカの言葉は個人主義の本質のようにも思います。

 数日後の参議院議員選挙の投票を控えて、争点の一つが日本経済の今後とともに憲法の改正で、自公政権はいくつかの野党を含めて改選の発議に必要な3分の2以上の議席獲得をめざしています。しかし、本音はあまり表面に出してはいないようです。

 自公政権、安倍政権のもとで3分の2の議席を取った時、あきらかに国民主権の否定や秘密主義に進むだろうと思うし、その上に自分たちの考える方向へ物事を進めていくだろうと私は思います。その意味で重要な方向を決める選挙だと思いますが、民主主義は一朝にしてなるものではないと思います。国民がしっかりした判断を育てていかない限り、長い未来は明るいものにはならない、短期決戦ではないということも覚悟すべきではないでしょうか。

表層を追いかけるだけでは済まない時代?

 今この一瞬だけが現実なのだと思う。この一瞬は無、ゼロから、未来へも過去にもつながる。ゼロになるということはなんと身が軽くなることだろうか。これまでに得たすべてから離れて無になり、改めて再検討すること。自分にとらえることができる範囲、経験の中ですることでしかないことなのだが、とらえ直す作業は簡単ではない。人間は過去の延長上でしか考えていないことが多いから、自分をゼロにする作業は普通はほとんどしていない。亀井勝一郎さんという人が絶望したことのない人間は信用できないと言ったと若いころ、ある知人から聞いたことがあってそのときとても心に残った一言だった。今の時期になっても無からの再生を繰り返すことは重要な意味があるのだと思う。
 人は生まれてきたら誰でも幸せでありたいと願うと思うけれども(そうでない人もあるのかもしれないがそういう人に実際あったことはない)生きることは大変だというのが実際ではないだろうか。そこで生まれた疑問を掘り下げていくとどこかで暗い闇に行きついてしまったりする。人間への信頼を失わないで闇を掘り下げることは難しい。自分を壊さないためには強さとバランスが欠かせないから、自分の限界を知ることはとても大切だと思う。
 現実の必要に迫られないのにではなく、否応のない現実に攻められて考えることを余儀なくされてきたから暗い闇にぶつかることがたびたびだった。釈迦の本に出会って、それまでよりすこし違った考え方ができるようになったと思うことがある。
 この数日、円地文子さんの「食卓のない家」を読んでいた。かなり熱中していたので他のことがおろそかになってしまった。
 「倫理21」の中で、柄谷行人氏が親の責任を問う日本の特殊性という章で円地文子さんの「食卓のない家」に触れているところがあってずっとこの小説を読んでみたいと思っていた。
この小説はフィクションだが、1970年安保の前夜に起こった学園紛争の嵐が終局を迎え、 その後尖鋭化した世界同時革命をスローガンにする極左グループが山岳アジトを転々としながら、最後に浅間山荘に人質をとって立てこもり銃撃戦を繰り返した浅間山荘事件に材をとっている。
 円地さんの小説はたくさんの重要なテーマを含んでいる。その時代の顔は問題の根の深さにおいて今日につながっていると思う。60年安保、70年安保の問題はなんだったのか。学生運動の終焉、その後に来る高度経済成長や労働運動社会運動の衰退と今日の時代が抱える問題はどのような推移をたどったのか。
 1970年代の学生運動の意味、その中の一部のグループが起こした凄惨な、人間のすることだろうかと思うような集団リンチ事件はなぜ起きたのか、それらはまだ本当には解明されていないのではと思う。円地さんは事件にかかわった70年代の若者を生い立った家族の中に位置つけて、 個人と社会という一様ではない、捉えがたい問題と時代の特徴に迫る読み応えのある作品にしていると思いました。
 浅間山荘事件にかかわった連合赤軍はその後今回テロ事件が起こったダッカで飛行機乗っ取り事件で人質との交換という事件を起こしている。
 現代社会は1970年代よりさらに地球は一つになったかのように国際的になり、すべてが一国ではすまなくなっている側面がある。しかし、貧富の格差、差別、暴力、将来への絶望など世界的な問題になっているけれどもどうしたらこういう状況を変えることができるのかを考えたとき、あくまで一より始めて、一の位置をしっかり確認することから始めたいなと思う。暴力も戦争も望まない、人を殺すことも殺させることもしたくない、ともに生きることができる、ここから始めたいと思う。
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