So-net無料ブログ作成
検索選択
前の10件 | -

「母への手紙」

  
  
  お母さん、やっとお母さんとゆっくり話をしたいと思うときがやってきました。

  今日突然思ったのですよ。私の中でゆっくりそういう時が成長していたのですね。

  今、私の目の前には緑に包まれたハス池やその先には何艘かのボートを浮かべた池が広がっています。公園はすっかり緑の季節になりました。
  幼い子供をのせたお父さんやわかいカップルがこぐボートがゆっくり水面をすべって行きます。
  思い出します。新緑にあふれたあの庭を。お母さんが一緒だったあの子供のころ。私は兄、姉妹の中の末っ子。姉たちが一緒に遊ぶことがなかったのはなぜでしょうね。年が離れていて、お姉
さんたちにはそれぞれの日常があったのでしょうね。私は一人散歩や物思いにふけるのが好きでした。特に一緒に姉たちが遊んでくれないのを不満に思っていたわけではなく自然に。
 夏の終わりから、秋の深まりにつれ、柿の木がたくさん実をつけ、クリがうっそうとした叢にいがを落としました。そう、梅雨のころは緑の葉に重なり合うように、梅がぎっしり青い実をつけ、イチジクが枝のあちこちに口を開けて熟しておいしくなったよ言わんばかりに私を誘いました。
 子どものころの一番の宝物は何?と聞かれたら、私は自然と答えるでしょう。豊かにあった自然をいつもいつも思い出します。お母さんの優しい面影とともに。


  お母さん、あれはあっけない別れでしたね。まだその意味もよくわからない年齢でした。

  あの朝、私はお母さんに町での買い物を頼まれましたね。
  「いやっ」
  私は拒否してそのまま学校に行きました。高校に入学したばかりの初夏でした。高校は町の中心部から外れたところにあったので、買い物をするには回り道をしなければなりませんでした。
 「いやっ」と断った時、お母さんはどう思っていたでしょうね。あんなにやさしかったお母さんの頼みなのに。学校から帰るとあなたは意識不明で、いびきをかきながら布団に寝かされていました。
 二度めの発作。いびきはよくない兆候だと周囲の誰かが言っていました。その日からお母さんは意識を一度も戻すことなく、一週間もしないうちに亡くなりましたね。
 父がお母さんの枕元に座って男泣きになくのをはじめてみました。

 初夏というのは不思議にその後も何度もターニングポイントになりました。何かそれなりの必然的なものがあるのでしょうかね。

 葬儀の日、担任の先生と級友たちが弔問に来てくれました。友人たちの前で私は大きなタオルであふれる涙をぬぐっていました。
 お母さんが居なくなって、お姉さんたちも家を出ていて、淋しくしくなりました。私の家の周辺の散歩はさらに頻繁になりました。

 お母さん、私はお母さんについて、どれだけお母さんのことを、考えていたことや感じていたことを知っていたのでしようね。なぜか今、おかあさんの記憶を一つ一つ呼びおこしながら、そんなことを考えています。知らなかった。何も知らなかったのです。おかあさんがもし、いろいろのことを書き残していてくれたら、もっとよくおかあさんを知ることができたでしょうに。
 私は今、この年になって初めて、人の一生とか、生きるとかいうことについて分かったように思うことがあるのです。非力で平凡な人間でも終わり近くなってわかることがあるのですね。
 そのことを書き残してみようかなと思っています。

前回の続きです。

 買いたい本があって本屋さんに行きました。ああやばいですね。「正義がゆがめれる時代」など四冊も買ってしまいました。旅行も友達とのお茶のみもなるべくしないようにして出費を少なくしているのに4800円の支出痛いです。
 ところで今日読んでいた本にこんな記述がありました。
 「戦後から70年代初めにかけての奇跡的ともいう経済成長は戦争ですべてが廃墟になった戦後復興にすぎない。この成功体験からすでに「成長の時代は終わったのに、終わったことにしないでだましだましやってきた。不可能性の時代に不可能を可能にするのは不正だけなのだ」
 これってああ、実感と思いました。
 需要できる経済力がなくなっているのに供給過多に。
 それにしてもこれから読書中心になってしまいそうです。

 
 「愛国と信仰の構造」全体主義はよみがえるのかを読んで、今の日本の状況がどちらの方向に進むかの大変な分かれ道になっていると思いました。
 なぜニイルの本をもう一度考えてみたいと思ったかはこれからの日本も世界も人を生かす社会になるか、人を殺す社会になるかの大変な分かれ目になっていると思ったからです。
 自分のことを自分で決めることができる自由と人と人の権利はフィフティヒィフテイという民主主義のもとに育てようという命を愛する人たちと懲罰や禁止、軍国主義など憎悪の人生否定との戦いであるとニイルは考えました。
 ニイルの言う自由は勝手気まま、自己中心の放縦の意味ではありません。



 国や民族、また個人のレベルでも歴史や伝統皆それぞれ違い、考え方も違いますが、人間であるという共通項があります。違いを認めながらそれでも共存するためには同じ人であるという共通項に立つ以外ないのではないかと思います。その共通項は命の尊重です。釈迦は殺傷をしてはいけないといいました。自分の命が大切なように相手の命も大切であると。
 憲法を改正しなければならないと考える理由はなんでしょうか。どうしてそう考えるのか、その主張を少しずつ読んでいますが、私はどうしても賛成ではありません。主な意図される憲法改正点は軍隊の明記と集団的自衛権と交戦権、武器使用など、さらに基本的人権の問題などでしょうか。
 
 

 「破壊と死に導くもの、そこには絶対に救いはない」というニイルの主張は正しいように私は思いました。
  
 次回戦前と戦後憲法の違いをもっとよく勉強してみたいと思います。

再びニイルにもどって考えてみる。理想と現実の間

 
 
   ニイル著作集6 問題の家庭から思うこと

 ニイルは人間の問題、世界の問題を問題の子の教育という長い間の実践とその観察から、今日の不安に満ちた社会を根本的に考察した人だと思います。
 イギリスのサマーヒルでの生涯を通した問題を持つ子を作らない教育実践で、教育のあらゆる方面にわたって問題の背後に何があるかを解明しました。そして子供たちの良き発達のために何をすべきか、新しい子供の取り扱いについて提言しました。問題の子とは不幸な子、問題を抱えた子どもという意味でしょうか。ニイルは問題を持つ子を作らない教育をとおして、闘争と破壊、疾病、戦争の絶えることのない世界から、真に平和で幸福な世界を築くことができると確信する卓抜な世界観をもつ偉大な思想家でもありました。

 今、日本では憲法改正の問題、喫緊のところでは共謀罪を巡る問題が議論されているのですが、根本にある問題に目を届かせることがおろそかになっているのではないかという疑問を持ちます。
 たとえば共謀罪ですが、犯罪になる前の計画、相談、準備の段階で取り締まるという法案ですが、この法律が適用される犯罪の範囲が明確ではなく(私などは読んでもいないのですが)、それが計画、準備段階の取り締まりだというのですから、普段からの監視が必要になります。
盗聴や市民からの通報、密告、通信傍受、車の移動監視などが行われ、取り締まる側の職権乱用や恣意的操作によって普通に暮らす人の基本的人権や思想信条の自由や表現の自由などまで取り締まりの対象にされ侵害される可能性も心配されています。もしわたしが今の政府の方向は危険だと思うと発言したとしたら、国家転覆の危険性ありと戦前そうだったように監視の対象になるのでしょうか。
 犯罪に脅かされる現実があり、安心して日常生活をおくることができないようになっていることも実際ですから、犯罪の取り締まりを強化してほしい、安心して生活できる社会になってほしいと思うのは市民の願いです。
 
 憲法改正の問題でも戦後の民主主義、基本的人権の尊重などによってあまりに自由や人権が尊重された結果利己主義がはびこってしまった、日本の心が失われているので日本の伝統文化に立ち返るべきという考えが日本会議や自民党、一部の政党にもつよくなっています。

 又日本の安全保障をめぐる問題では、中国や韓国、北朝鮮との関係を巡って安全保障環境が変化していると一部では憂慮する声がつよくなっています。そのために日本も軍備を増強して防衛すべきと。

 これらのなかなか解決の難しいい悩ましい問題の基本問題はなんでしょうか。

 理想と現実の間

 人間であることと人と人の間。人の住む世界と国と国の間  ということでしょうか。

 わたしにはニイルはこれらのことの根本に立ち返って考えたように思えるのですが。



 そのニイルの主張の一部から、
  子どもの困った行動を起こすコンプレックスの原因を知るだけでは子どもをよくすることはできない。この事実を知るためには私にとって長い年月を要した。子どもを直すということだけが教育者としての重要な任務ではない。教育者の仕事は子どもを直すということなどが必要のない新しい時代を生み出すことである。

 「子どもを直すということなど必要のない新しい世界」とは、ニイルはどういう世界をイメージしたのでしょう。ここにニイルが単に教育者にとどまらない卓越した世界観を持つ思想家であることがしめされているように思います。

 コンプレックスという言葉を知った初めのころ、コンプレックスというのは劣等感という意味と思っていたのですが、そうではなく無意識下の、あるいは一部意識された意識の塊のようなものという意味のようだと分かりました。劣等感とか、ある種の恐怖とか不安とか、先入観、偏見などこれらは人を左右しているコンプレックスということができるのだろうと思います。
 個人にとって重要な意味をもってその人を動かしている無意識下の塊はその人を苦しめたり、思わぬ方向につれていってしまったりしますから、自分をよく知るということはこうした苦しみをよく知ること、客観的に物事をとらえる訓練によってコンプレックスから解放される、あるいは冷静な対処の仕方ができるようになるということなのかと思います。
 コンプレックスは青年でも老齢でも年齢を問いませんが、子供は自分で自分の心を表現したり理解したりできませんから、大人が理解する必要があります。ニイルがこどもの困った行動を起こすコンプレックスの原因を知ってそれを取り去ってやることといっているのはそのためです。

            次回に続けます。
 
                      

再びニイルにもどって考えてみる。憲法問題をかんがえるために。二 [雑感]

 
 
 人生をあまくみるな。100年に一回、いや1000年に一回しかないような時代の大きなうねりに直面していながら、ただ一つ変わっていないのが日本人のメンタリティー。与えられることに慣れすぎている。あるいは与えられるのを待っているーーーーという落合信彦さんの指摘、わたしも同じように感じますが、個人的には人生を甘く見るなという戒めは日々強くなります。

 なぜというと、
 明治維新からの80年、戦後70年のその時代を考えると世界や社会がどう変化しているのかがわかるように思います。明治以降この間は不況や戦争をはさみながらも経済拡大を築きました。人類は経済的に成長を続けてきたといっていいのだと思います。でも経済的拡大が人間の幸福と全く同じかというとどうでしょうか。ある時期から富の偏在は拡大し続けています。地域的紛争もいつ終わるかわからない状態で続いています。生存ができないという人も大量に生み出されています。自然破壊も進んでいます。これらはプラスの一方で進んでいる負の側面だと思います。

 グローバル化が進行する中で、世紀のモンスターが世界を支配するようになっているというのは本当ではないでしょうか。はじめは軍産共同体が戦争がないと死んでしまうからあちこちで戦争を仕掛けてきた、今は国境がない国際金融投機が世界を支配しているといわれていますが。北朝鮮を巡る危機も北朝鮮のキム体制の問題だけで作り出されているのではないと思います。日本のマスコミの報道はキムジョンナムの危険性だけの問題のように報道されました。日本での危機感が韓国以上だったというのもいかに作り出されたものか、それが利用されている側面もあるのではと思います。

 朝鮮動乱は冷戦下での東西対立で、パルチザン闘争をしながら北朝鮮を独立に導いた金日正が率いる北朝鮮と中国ソ連対アメリカ韓国の連合軍との闘いでした。この戦争は東西冷戦の戦いでアメリカにとってイデオロギーをめぐる重要な意味があったのだと思います。この時同じ民族が南北に分断されました。東西の冷戦がなくなった今、世界の孤児のようになった北朝鮮を巡る問題が危機として浮かび上がってきたのはかってとは異なる要素が複数あるのではないかと思います。
 
 

 自分一個のことではもう老齢だから、先がながくない、自分なりに頑張ってその結果どう一生を終わってもいいと思うのですが、でも親であり、次の世代、これから先の時代について責任はないのかというとそうは思えないのです。親として何が問題だったのか、自分の経験を振り返ってみることはとても大事だと思っています。


  ニイル著作集6 問題の家庭から。

 なんと時代を予言していることかと思いました。
 ニイルはイギリスのサマーヒルでの生涯を通した問題を持つ子を作らない教育実践で、教育のあらゆる方面にわたって問題の背後に何があるかを明らかにしました。子供たちの良き発達のために何をすべきか、新しい子供の取り扱いについて提言しました。問題の子とは不幸な子という意味です。問題を持つ子を作らない教育をとおして、闘争と破壊、疾病、戦争の絶えることのない世界から、真に平和で幸福な世界を築くことができると確信する卓抜な世界観をもつ偉大な思想家でもありました。

   次回にもっとニイルの教育実践と自由の問題について考えたいと思います。


 



再びニイルにもどって考えてみる。憲法問題をかんがえるために。 一 [雑感]

 さわやかな緑の風に誘われて散歩に行きました。落合信彦さんの「豚」の人生、「人間」の人生という本をもって出かけました。
 この本が出版されたのは1999年4月でだいぶ前ですがその頃購入したのに、ほとんど読んでいなかったようです。
 
 人生をあまくみるな。コマーシャリズムに流されるな、人生の目的を見定めろ、本当の危機意識を持てなど、共感するところが大です。なにが危機か、この本が書かれたころよりもっと今のほうが両極化がすすみ深刻化しているように思います。対話と民主主義が形骸化していると感じるからです。

 本の中から

 今の日本は、古代アテネの世界最古の民主主義が崩壊していった過程とよく似ている。歴史家のトゥキディデスが言っているように、市民の一人一人が「誰かがやるだろう」「俺には関係ない」と思い始めたときから民主主義が崩れていった。で、アテネ市民よりもはるかに能のない人間が出てきて独裁者になっていくとしたら。

 財産ばかりか、命まで奪う国。
 日本の最大の無駄と言ったら、やっぱり政治家だな。それも害のある。日本の政治家はすべて甘くみている。97年大局を見誤って、消費税を3パーセントから5パーセントにあげても、大丈夫、「国民は何も言わないから」、結局経済危機を迎えちゃった。オレなら不明を恥じてバッジを外す。ところが一人でも「何もできなかった」と言って頭を下げてバッチを外したやつはいるか。この日本を大きくし、支えてきた中小零細企業がどんどんつぶれ、経営者が自殺していった。
とんでもない不良債権を生み出した銀行には公的資金を使い、ひたすら一生懸命働いてきた中小企業は見殺しにされた。日本を支えてきたのは彼ら。バブルは人災なんだからしっかり考えなきゃだめなんだ。
 涙のない政治にこそキレろ。君たちには無能な政治家を首にする義務がある。
 
 ズバリと鋭い、ああと考えさせられる内容です。若いこれからの人に読んでほしいなと思いましたが。




 憲法改正を巡る議論がさかんになってきました。安倍総理が2020年に憲法改正をしたいと日程をあきらかにしましたから、その是非はともかくとして憲法についての議論が日程にあがってくることは確実でしょう。
 今日、NHKスペッシアル「憲法・70年の潮流」という番組を見ていましたが、憲法についての議論の難しさを痛感しました。あらゆる要素が複雑にねじれあっているからです。十分に時間をかけてしっかり議論すべきだし、わかるようにしっかりした整理が必要ではないでしょうか。ゆめゆめこれだけの時間議論したからなどとセレモニーにすることがあってはあらないと思います。

 最近インターネットの記事で、ある大学の法学部の新入生を対象とした調査で若い人に憲法改正に賛成か反対かを調査すると5対4くらいの割で改正に賛成になるそうです。
 

 なぜ憲法改正が必要と考えるかについて。その理由であげられていたことが時代の変化に合っていないというもの。そして武力を持ち、自由に使う権利を認めることがそのまま戦争につながるとは思わない、自国を守るため、攻撃されない国作りが必要という、どちらかというと社会的変化に敏感な考え方のようです。法学部の学生でも憲法と法律の違いが分からなかったり、なんとなく今の社会が変わってほしいという気持ちがあって憲法を改正するとそうなるのではないかという気持ちもすくなくないようです。

 一方護憲派の考えは戦争を絶対的に否定する考えに支えられ、社会情勢に左右されない。むしろ問題の解決に武力による威嚇や戦争を用いないとした、過去の何度かの戦争の惨禍の教訓から導き出した平和主義や国民主権、立憲主義などをもっと自分たちの血肉にすべきという考えのようです。

 二つの考えの違いは簡単に埋まらないように思われますが、それだけにあらゆる角度からどれだけ議論が深められるかではないでしょうか。明日の世界をどういう世界にしたいのかが問われています。
 


 
 

今日は憲法記念日ですね。 [雑感]

  
 今日は憲法記念日で祝日ですね。でもなぜかとても憂鬱です。たぶんいま憲法の主権在民、立憲主義、平和主義など一部で危うくなっているからでしょう。
明治から終戦までと戦後70年という時間について、今勉強しようとしていてどんどん重い気分になっているのです。私は直接戦前を知ってはいないのですが、でも友人知人の中には空襲の大火の中を逃げ延びた人、家族と一緒に生活できなかった人、中国や朝鮮からやっと帰った人などいろいろの子供時代を過ごしていますし、何よりあの時代の狂気を魂を圧殺してしか生きられなかった時代の息苦しさを物心つき、成長するにつれ、本や映画ニュース報道などで知りました。
 なぜ戦争があるのか、なぜ戦争をしなければ人間は生きていけないのか、今も疑問です。その問への答えを見つけています。
 「愛国と信仰の構造」を読み終わって自分なりの整理をしたいと思っているのですが、簡単ではありません。これからもっと時間がかかるでしょう。

 今日のネットのニュースにこんな記事がありました。

 シリアへのミサエル攻撃は「夕飯の余興だった」デザートと共に習近平氏へ説明された。大統領に何ら費用は生じなかった。
これはトランプ大統領を支える側近のロス商務長官の発言です。ちなみにこの時発射された巡行ミサイル59発分の費用は8000万ドル(90億円)だそうです。
この人は著名な投資家で知日派、国内産業の振興、外国企業に対する競争力強化を担当。日米交流
組織ジャパン・ソサエティ会長を務めているそうです。

 アメリカと一体の安倍総理、このロスさんのいう国内産業の中には日本も含まれているのです、外国企業の中には日本は含まれていませんと考えているわけではないでしょうね。いや何も言えないということ?なのでしょうか。
 それにしても著名投資家をしている人らしい発言だと思いましたが、皆さんはどう思われますか。



小さな花 [雑感]

   
小さな花



 野辺に咲く小さな花、わずか数ミリにもみたないような小さな花、薄いピンク色に染まって精一杯咲いているのをみるとなんて可憐でつつましいことだろうと思います。励まされたりします。でもこの花も人の靴で踏みつけられればひとたまりもないでしょう。戦車がそのうえを通れば、戦車から爆弾が一発おとされたら周囲の地面もろとも吹き飛んで景色は一変してしまうでしょう。
 
 この小さな花にも命があり、精一杯生きる努力をしながら、ほかに危害を加える気持ちなど持たない花も、命を落とすでしょう。この花のように何の力ももたないわたしは同じ存在です。
 
 兵器によって自分を守れると考える人がいるようです。兵器は人を守るものでしょうか。わたしは人を威嚇し、殺傷する道具と思います。
威嚇したり、ひざまずかせたりしたい人が使う道具で、人の命、心に向けられていると思います。



 フェイクニュースがずいぶん世界に拡散されているといわれるようになりました。フェイクニュースの「火付け役」の一人とみなされているポール・オーナー氏がインタビューに答えているという記事を読みました。
「なぜフェイクを広めたのですか」という質問に

  「自分はトランプ氏を好きではない。応援するつもりもなかった。トランプの言葉をうのみにする人も批判する者も、自分たちの信じたいということのみを受け入れ、伝える。何が真実なのか、みんなに突き止めてほしかった。一度本当だと信じた人の考えを変えることはできなかった」とも答えているそうです。

 恣意的に世論操作のために流す嘘や、そうでないとしてもあの国なら十分ありうるという先入観にもとづく嘘などいろいろあると思いますが、ポール・オナー氏の「何が真実なのか突き止めてほしい」という言葉重要だと思いました。

危機は作り出されているのか。 [雑感]

 
 テレビの報道を見ていてずっと疑問に思うことがありました。もし自分が日本人ということを抜きにして今の世界のニュースをみたらどうだろうかと。例えば日本の報道は韓国や日本、アメリカを挑発しているのは北朝鮮だという前提で報道されています。それ以外の見方を聞いたことはほとんどありません。北朝鮮は悪で脅威であるから、北朝鮮の体制は変えなければならないという報道がほとんどです。アメリカの韓国や日本の基地を使った軍事作戦も日本や韓国にとっての脅威を取り除くための行動として日本政府はずっと全面的に支持しています。むしろ日本がお願いして守ってもらっているという立場です。だから危機があおられるにつれこれに対処するためにもっと軍事力を増強しなければならないという声が強くなります。
 兵器産業はより強力なものにする競争に果てしがありません。こんな高額な破壊兵器を買うのは国だけです。国民の税金が破壊兵器に使われてです。北朝鮮でも韓国でも、日本でもアメリカでも軍事産業はますます強大に、生活に苦しい国民は負担を強いられ、ますます国民生活は苦しくなるでしょう。

 危機は必要以上につくられているという疑問を感じますが、報道にはこうした疑問は少しも出てこない。日米政府の方針に乗った北の挑発はあるのか、あった場合はという報道ばかりで違和感がぬぐえません。


 北朝鮮から見たら、日米韓の軍事演習や金正恩の斬首作戦を含む軍事行動はアメリカの挑発と見えるのは当然ではないでしょうか。

 私は北朝鮮の一糸乱れない軍人の行進など見るととても住みたくない国です。北朝鮮の中がどうであるのか、人々の暮らしがどうなっているのか、よくわからないし、正確な判断はできませんが、今の政治体制は不幸ではないかと思っています。さらに拉致など許せない行動であり、何をおいてもすぐに拉致された人は返されなければならないと思いますが、他の国がその国の体制を武力などで強制的に変えたりすることが許されることでしょうか。なぜなら、その国の在りかたはその国の国民が判断することではないでしょうか。もし無理にそうしたら、北朝鮮の国民にも大きな犠牲が出るでしょう。
 核の脅威がないとは言えないことですが、何もしない相手に核兵器を使うことは現実的ではありません。危機を少なくする努力は別にあるのに、なぜ今北朝鮮問題なのでしょうか。

  
 

明日を考える。

 やっと「愛国と信仰の構造」を二度読み終わったところです。すらすらと読み通せるものではありませんでした。何度も何度も立ち止まって考えながら読み進めなければならなかった。読み終わってもまだこれからも何度も手にとることでしょう。明日を考えたとき、個人として今どうあったらよいのか突き付けられる問題ばかりだったからです。

 私が生まれたのは政党が解散して大政翼賛会に統一されたその翌日なのですが、近代日本の歴史は75年で区切ることができるといわれます。明治維新から数えて75年経て日本は戦争に突入しました。この75年を細かく見るとだいたい25年ぐらいの単位で大きな変化をしているそうです。
 江戸幕府から明治へと変わった時から最初の25年くらいは西洋列強の仲間入りを目指して富国強兵にまい進した時期にあたりますが、明治新体制をつくるにあたって、幕府を倒した下級武士は体制批判の「下からのナショナリズム」という性格を持ちながら同時に儒教的エリート意識を持っていたため、国家への忠誠心などを狙って、天皇崇敬、皇室祭祀、神社の優遇などをとおして天皇を求心力として国家を強くする政策をとったのでした。


 維新政府は神仏分離令を公布して、神社を自立させ、祭政一致の天皇が行う皇室祭祀と定めました。古代から行われていた宮中祭祀は新嘗祭だけでしたが、(ほかに伊勢神宮では神嘗祭があった)明治に入っていろいろ作られ、これらは祝祭日として学校や様々な場所でお祝いの行事がもたれ国民の中に浸透していきます。皇室祭祀と連携しながら全国の神社が一元的に統合され、国家神道の重要な構成要素となっていきました。

 国家神道の教の中身は「天照大御神やほかの神的存在が据えた確固たる根源に従い、歴代の天皇が受け継いできた治教である」すなわち他の宗教とは異なる「治める教え」ということです。
国家神道は宗教ではない、国が管理するものという二重構造の制度設計をしたわけです。こうして国家神道は他の宗教より一段上に立つものとして他の宗教を組み込んでいくことになりました。

 日本帝国憲法でも信教の自由は認めていますが、この憲法は神権的国体観念と西洋的立憲主義を接ぎ木したもので、立憲主義と国家神道のどちらに軸足を置くかで全く運用のことなるものだったのです。

 天皇を中心において「上からの統合」を目指した明治維新をどうみるか、儒教(祖先への孝と君主への忠、日本では孝より忠のほうに重きが置かれる)から派生した尊皇の政治の希求と古代への回帰というユートピアの合体したものとみることができるのでしょうか。


今安倍政権を背後から支え、閣僚の中にも多いといわれる日本会議は天皇を国の中心に国家統治をする政治体制への回帰を目標にしているように思われます。これは明らかに現憲法の主権在民とは異なるのですが、安倍政権が秘密保護法や安保法制の改定、共謀罪などの制定を通して目ざしていることは本当はどこにあるのでしょうか。このことについて私が感じていることは後で書きたいと思います。しかしはっきり見きわめる必要があるのではないかと思っています。

 次回、神権的国体思想がその後どのような経過をもって超国家主義的全体主義になったのか、戦争へと雪崩を打って進んでしまったのか考えたいと思います。そこに日本がこれから先の経験から学んで明日につなげるヒントがあるのではと思います。
  

       





右傾化を考える。戦前の全体主義につながった二つのユートピア思想

 北朝鮮とシリアを巡る問題、緊張の度をましています。個人は成り行きを見守っているいがいなにもできません。
 自分としては自分の考えをしっかり持って自分の考えのように生活するしかないと思っています。
 かって、人間が様々な努力を重ねていけば必ず社会は住むやすい方向にすすんでいくと思っていたのですが人間は自己選択にたえられる存在だろうかという、柴田翔氏の言葉を思い出します。

 今緊張を増している北朝鮮を巡る問題ですが、そもそも北朝鮮という東アジアの小さな国になぜ世界一の大国アメリカが艦隊を出動させ、先制攻撃を仕掛けなければならないのか。北朝鮮が手ごわい、話し合いができない鬼っ子になって、体制の崩壊を狙って攻撃を仕掛けてくるなら、核兵器の反撃を辞さないと危機をふりまいているのか、万が一軍事的衝突が始まれば想像をこえる取返しのできない事態になることは必至なのに力の行使も選択肢であると緊張状態が続いています。韓国、日本が一番手ひどい被害をうけるのに日本政府はアメリカの動きと一体です。被害を受ける当事者でないかのような主体性のなさ、不思議ですし問題ではないでしょうか。

 その安倍政権ですが日本の政治の右傾化が言われています。憲法改正をはじめ、秘密保護法や共謀罪などそこにどんな意味、意図、動きがあるのか、しっかり考えてみなければならないと思います。


素朴に子供を育てるときにぶつかる問題の背後に時代があります。 その時代、社会の影響を抜きに子育てもないのですが、戦後から七十年という時の流れを丁寧に振り返って考えてみることもとても大事だと思っています。

  以前ブログで書いたことがあるのですが、郷静子さんのレクレイムという小説はおそらく現実にあったことにちかく書かれたものと思います。詳細を忘れてしまっているのですがこの小説はごく普通に暮らす庶民にとっての戦争と周囲の人々の運命をえがいていて当時のことがよくわかる小説の一つだと思います。主人公は国や家族思いの女学生で、勤労動員では丈夫でない体の無理を重ねても率先して働く優等生の女性です。いわば軍国少女です。学校ではっきり周囲とはちがっても自分の考えをもって行動する年下の女学生と知り合いになり、何かと相談相手になったりして次第に親友となっていきます。この年下の友人の父親は大学教授なのですが、逮捕されます。友人の家族を襲った不幸を通して主人公は自分が熱心に信じてきた国との板挟みに苦しんでいきます。主人公の周りの青年たちも次々戦場で命を落として行きました。人も物もすべてうしなった彼女は真実を見る感性、目がなかったことを後悔します。


  今「愛国心と信仰の構造」を読んで、戦前の全体主義につながった二つのユートピア思想に出会いました。
この二つの流れ、ユートピア思想は現在の右傾化ととてもつながりが強い面があると思うので「愛国と信仰の構造」をテキストによく考えてみたいと思いました。

  その一つめは
 「すべてのことが神のみ仕業として起こっている、それに対して人間の賢しらというものがある.。この賢しらこそが漢意であり、大和心はすべて神のみ仕業であり、いわばありのまま神に髄順することをよしとする大和心こそがこの国の国体を支えている」
という国家神道、国体論が、親鸞思想の「計らいを超えた弥陀の本願」という他力思想と親和性を持ち、弥陀の本願が天皇の大御心とすりかわっていくという流れになった浄土真宗の他力思想と全体主義への流れです。

 もうひとつが
 日蓮主義と国家ナショナリズムとの関係です。こちらはもともとももっている日蓮主義の改革の志が国体論や国家主義に合体することによって、世界を一つにするという拡張主義になっていったことです。

 次回このことについてもっと詳しく考えてみたいとおもいます。




 
前の10件 | -