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利己主義と個人主義はちがう。 [雑感]

前の1.5×4で自己決定について、ちょうどオウム真理教の地下鉄サリン事件などがあったとき柴田翔氏がはたして人間は自己決定に堪えられる存在なのだろうかと自問したのち、しかし、今日でも自分には主体的な自己決定はゆるぎない価値と思うということを言われていた新聞記事を紹介したことがあります。

 戦後民主的教育制度になって一番初めの世代だった私たちが学んだのは民主主義であり、新憲法でした。基本的人権や主権を持つ個人として、しっかり自分で考え、自分の決定と責任を持つ。そう学んだのだけれども自己決定に堪えられる存在なのかという問いは本当に難しい問なのだと思います。

 もともと戦後教育を一貫して批判してきた人たちは基本的人権に反対だったし、昔からの民は公的な権力で統治すべしという考えが強かったのではないかと思います。お上の言うとおり、考えないで何かに頼ることは楽でもあるのです。その中心が国体論で天皇を絶対的統治者として国を治めるナショナリズムは太平洋戦争から敗戦までをたどることになりました。そしてその考えは今も変わっていないし、そういう方向に持ってゆきたいと考える人はいるのではないでしょうか。

 個人主義はしばしば利己主義と一緒に考えられてきました。目に余る権利の主張とも個人の自由は自己の伸長の解放だけれど、自分さえよければ他人はどうなってもいい、結果は自分の責任。自由競争、自己責任にもつながってきた。今はそれがいびつな世界にもつながっているように思えます。
 
 わたし個人の感想ですが、個人が一個人だけで生きることができない他者との関係の中に生きる存在であれば他者を抜きにして幸福はないと思うし、公的な空間、共生はないのではないでしょうか。個人主義は自分と他者の関係の上に立った自己決定であって主体性的個人の意味で政治にも社会にも参加し、責任ももつことだと思います。犀の角のように独り歩めというシャカの言葉は個人主義の本質のようにも思います。

 数日後の参議院議員選挙の投票を控えて、争点の一つが日本経済の今後とともに憲法の改正で、自公政権はいくつかの野党を含めて改選の発議に必要な3分の2以上の議席獲得をめざしています。しかし、本音はあまり表面に出してはいないようです。

 自公政権、安倍政権のもとで3分の2の議席を取った時、あきらかに国民主権の否定や秘密主義に進むだろうと思うし、その上に自分たちの考える方向へ物事を進めていくだろうと私は思います。その意味で重要な方向を決める選挙だと思いますが、民主主義は一朝にしてなるものではないと思います。国民がしっかりした判断を育てていかない限り、長い未来は明るいものにはならない、短期決戦ではないということも覚悟すべきではないでしょうか。

表層を追いかけるだけでは済まない時代?

 今この一瞬だけが現実なのだと思う。この一瞬は無、ゼロから、未来へも過去にもつながる。ゼロになるということはなんと身が軽くなることだろうか。これまでに得たすべてから離れて無になり、改めて再検討すること。自分にとらえることができる範囲、経験の中ですることでしかないことなのだが、とらえ直す作業は簡単ではない。人間は過去の延長上でしか考えていないことが多いから、自分をゼロにする作業は普通はほとんどしていない。亀井勝一郎さんという人が絶望したことのない人間は信用できないと言ったと若いころ、ある知人から聞いたことがあってそのときとても心に残った一言だった。今の時期になっても無からの再生を繰り返すことは重要な意味があるのだと思う。
 人は生まれてきたら誰でも幸せでありたいと願うと思うけれども(そうでない人もあるのかもしれないがそういう人に実際あったことはない)生きることは大変だというのが実際ではないだろうか。そこで生まれた疑問を掘り下げていくとどこかで暗い闇に行きついてしまったりする。人間への信頼を失わないで闇を掘り下げることは難しい。自分を壊さないためには強さとバランスが欠かせないから、自分の限界を知ることはとても大切だと思う。
 現実の必要に迫られないのにではなく、否応のない現実に攻められて考えることを余儀なくされてきたから暗い闇にぶつかることがたびたびだった。釈迦の本に出会って、それまでよりすこし違った考え方ができるようになったと思うことがある。
 この数日、円地文子さんの「食卓のない家」を読んでいた。かなり熱中していたので他のことがおろそかになってしまった。
 「倫理21」の中で、柄谷行人氏が親の責任を問う日本の特殊性という章で円地文子さんの「食卓のない家」に触れているところがあってずっとこの小説を読んでみたいと思っていた。
この小説はフィクションだが、1970年安保の前夜に起こった学園紛争の嵐が終局を迎え、 その後尖鋭化した世界同時革命をスローガンにする極左グループが山岳アジトを転々としながら、最後に浅間山荘に人質をとって立てこもり銃撃戦を繰り返した浅間山荘事件に材をとっている。
 円地さんの小説はたくさんの重要なテーマを含んでいる。その時代の顔は問題の根の深さにおいて今日につながっていると思う。60年安保、70年安保の問題はなんだったのか。学生運動の終焉、その後に来る高度経済成長や労働運動社会運動の衰退と今日の時代が抱える問題はどのような推移をたどったのか。
 1970年代の学生運動の意味、その中の一部のグループが起こした凄惨な、人間のすることだろうかと思うような集団リンチ事件はなぜ起きたのか、それらはまだ本当には解明されていないのではと思う。円地さんは事件にかかわった70年代の若者を生い立った家族の中に位置つけて、 個人と社会という一様ではない、捉えがたい問題と時代の特徴に迫る読み応えのある作品にしていると思いました。
 浅間山荘事件にかかわった連合赤軍はその後今回テロ事件が起こったダッカで飛行機乗っ取り事件で人質との交換という事件を起こしている。
 現代社会は1970年代よりさらに地球は一つになったかのように国際的になり、すべてが一国ではすまなくなっている側面がある。しかし、貧富の格差、差別、暴力、将来への絶望など世界的な問題になっているけれどもどうしたらこういう状況を変えることができるのかを考えたとき、あくまで一より始めて、一の位置をしっかり確認することから始めたいなと思う。暴力も戦争も望まない、人を殺すことも殺させることもしたくない、ともに生きることができる、ここから始めたいと思う。