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対話について

 
  対話とは何だろうかと考えてみると他人と自分との対話というより自分と自分との対話、自分の中のもう一人の自分との対話のほうが大きいと感じます。もう一人の自分が自分をいつも見つめているというのか、小さい頃からそのためにかなり自意識過剰だったような気がします。
子供が生まれたとき、はじめて親として自分とは別の存在としての子供と親としての自分のかかわりのようなことをずいぶん考えさせられました。自分ひとりと直接社会だったものが、もう一つ、親子とか家族ということが加わったというような。今はまた孫が生まれたことで、親と子、親と子と孫と社会とか世界とかになって、私自身はいつ消えてもいいようなものなのですが、孫を通して考えることも多くなって、政治にかかわる発言はあまり好きではないのですが、黙っていてはいけない気持ちにさせられてしまいます。

 泥がなければ花は咲かないという本を今読んでいます。著者は曹洞宗の「大教師」の尼僧です。苦しみや悲しみという泥、それが原因となって、その苦に導かれてアンテナが立ち、よき師、よき教えという縁に出会うことで、泥は肥料と転じ、美しい花という果を咲かせる。「苦しみがわたしを救う」は、泥はアンテナを立てよという仏様の慈悲の贈り物だと。そうかもしれないと思いました。アンテナをたて始めたところかなと思います。
 自分との対話は自分と他人についての関心、物事への関心、その他あらゆるこの世に存在するものへの関心、対話なのだと思います。自分の場合は家族とか、暴力とか世界の平和とかに関心があり、自分自身との対話もですが、読書は他人との対話の一番のツールです。新聞の新刊案内を見ていたら、「戦争、暴力の反対語は平和ではなく対話です」という本の新刊案内がのっていました。時期を得た本だと思いました。そのうち読んでみたいと思っているのですが、読みたい本がたまる一方です。