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危機は作り出されているのか。 [雑感]

 
 テレビの報道を見ていてずっと疑問に思うことがありました。もし自分が日本人ということを抜きにして今の世界のニュースをみたらどうだろうかと。例えば日本の報道は韓国や日本、アメリカを挑発しているのは北朝鮮だという前提で報道されています。それ以外の見方を聞いたことはほとんどありません。北朝鮮は悪で脅威であるから、北朝鮮の体制は変えなければならないという報道がほとんどです。アメリカの韓国や日本の基地を使った軍事作戦も日本や韓国にとっての脅威を取り除くための行動として日本政府はずっと全面的に支持しています。むしろ日本がお願いして守ってもらっているという立場です。だから危機があおられるにつれこれに対処するためにもっと軍事力を増強しなければならないという声が強くなります。
 兵器産業はより強力なものにする競争に果てしがありません。こんな高額な破壊兵器を買うのは国だけです。国民の税金が破壊兵器に使われてです。北朝鮮でも韓国でも、日本でもアメリカでも軍事産業はますます強大に、生活に苦しい国民は負担を強いられ、ますます国民生活は苦しくなるでしょう。

 危機は必要以上につくられているという疑問を感じますが、報道にはこうした疑問は少しも出てこない。日米政府の方針に乗った北の挑発はあるのか、あった場合はという報道ばかりで違和感がぬぐえません。


 北朝鮮から見たら、日米韓の軍事演習や金正恩の斬首作戦を含む軍事行動はアメリカの挑発と見えるのは当然ではないでしょうか。

 私は北朝鮮の一糸乱れない軍人の行進など見るととても住みたくない国です。北朝鮮の中がどうであるのか、人々の暮らしがどうなっているのか、よくわからないし、正確な判断はできませんが、今の政治体制は不幸ではないかと思っています。さらに拉致など許せない行動であり、何をおいてもすぐに拉致された人は返されなければならないと思いますが、他の国がその国の体制を武力などで強制的に変えたりすることが許されることでしょうか。なぜなら、その国の在りかたはその国の国民が判断することではないでしょうか。もし無理にそうしたら、北朝鮮の国民にも大きな犠牲が出るでしょう。
 核の脅威がないとは言えないことですが、何もしない相手に核兵器を使うことは現実的ではありません。危機を少なくする努力は別にあるのに、なぜ今北朝鮮問題なのでしょうか。

  
 

明日を考える。

 やっと「愛国と信仰の構造」を二度読み終わったところです。すらすらと読み通せるものではありませんでした。何度も何度も立ち止まって考えながら読み進めなければならなかった。読み終わってもまだこれからも何度も手にとることでしょう。明日を考えたとき、個人として今どうあったらよいのか突き付けられる問題ばかりだったからです。

 私が生まれたのは政党が解散して大政翼賛会に統一されたその翌日なのですが、近代日本の歴史は75年で区切ることができるといわれます。明治維新から数えて75年経て日本は戦争に突入しました。この75年を細かく見るとだいたい25年ぐらいの単位で大きな変化をしているそうです。
 江戸幕府から明治へと変わった時から最初の25年くらいは西洋列強の仲間入りを目指して富国強兵にまい進した時期にあたりますが、明治新体制をつくるにあたって、幕府を倒した下級武士は体制批判の「下からのナショナリズム」という性格を持ちながら同時に儒教的エリート意識を持っていたため、国家への忠誠心などを狙って、天皇崇敬、皇室祭祀、神社の優遇などをとおして天皇を求心力として国家を強くする政策をとったのでした。


 維新政府は神仏分離令を公布して、神社を自立させ、祭政一致の天皇が行う皇室祭祀と定めました。古代から行われていた宮中祭祀は新嘗祭だけでしたが、(ほかに伊勢神宮では神嘗祭があった)明治に入っていろいろ作られ、これらは祝祭日として学校や様々な場所でお祝いの行事がもたれ国民の中に浸透していきます。皇室祭祀と連携しながら全国の神社が一元的に統合され、国家神道の重要な構成要素となっていきました。

 国家神道の教の中身は「天照大御神やほかの神的存在が据えた確固たる根源に従い、歴代の天皇が受け継いできた治教である」すなわち他の宗教とは異なる「治める教え」ということです。
国家神道は宗教ではない、国が管理するものという二重構造の制度設計をしたわけです。こうして国家神道は他の宗教より一段上に立つものとして他の宗教を組み込んでいくことになりました。

 日本帝国憲法でも信教の自由は認めていますが、この憲法は神権的国体観念と西洋的立憲主義を接ぎ木したもので、立憲主義と国家神道のどちらに軸足を置くかで全く運用のことなるものだったのです。

 天皇を中心において「上からの統合」を目指した明治維新をどうみるか、儒教(祖先への孝と君主への忠、日本では孝より忠のほうに重きが置かれる)から派生した尊皇の政治の希求と古代への回帰というユートピアの合体したものとみることができるのでしょうか。


今安倍政権を背後から支え、閣僚の中にも多いといわれる日本会議は天皇を国の中心に国家統治をする政治体制への回帰を目標にしているように思われます。これは明らかに現憲法の主権在民とは異なるのですが、安倍政権が秘密保護法や安保法制の改定、共謀罪などの制定を通して目ざしていることは本当はどこにあるのでしょうか。このことについて私が感じていることは後で書きたいと思います。しかしはっきり見きわめる必要があるのではないかと思っています。

 次回、神権的国体思想がその後どのような経過をもって超国家主義的全体主義になったのか、戦争へと雪崩を打って進んでしまったのか考えたいと思います。そこに日本がこれから先の経験から学んで明日につなげるヒントがあるのではと思います。
  

       





右傾化を考える。戦前の全体主義につながった二つのユートピア思想

 北朝鮮とシリアを巡る問題、緊張の度をましています。個人は成り行きを見守っているいがいなにもできません。
 自分としては自分の考えをしっかり持って自分の考えのように生活するしかないと思っています。
 かって、人間が様々な努力を重ねていけば必ず社会は住むやすい方向にすすんでいくと思っていたのですが人間は自己選択にたえられる存在だろうかという、柴田翔氏の言葉を思い出します。

 今緊張を増している北朝鮮を巡る問題ですが、そもそも北朝鮮という東アジアの小さな国になぜ世界一の大国アメリカが艦隊を出動させ、先制攻撃を仕掛けなければならないのか。北朝鮮が手ごわい、話し合いができない鬼っ子になって、体制の崩壊を狙って攻撃を仕掛けてくるなら、核兵器の反撃を辞さないと危機をふりまいているのか、万が一軍事的衝突が始まれば想像をこえる取返しのできない事態になることは必至なのに力の行使も選択肢であると緊張状態が続いています。韓国、日本が一番手ひどい被害をうけるのに日本政府はアメリカの動きと一体です。被害を受ける当事者でないかのような主体性のなさ、不思議ですし問題ではないでしょうか。

 その安倍政権ですが日本の政治の右傾化が言われています。憲法改正をはじめ、秘密保護法や共謀罪などそこにどんな意味、意図、動きがあるのか、しっかり考えてみなければならないと思います。


素朴に子供を育てるときにぶつかる問題の背後に時代があります。 その時代、社会の影響を抜きに子育てもないのですが、戦後から七十年という時の流れを丁寧に振り返って考えてみることもとても大事だと思っています。

  以前ブログで書いたことがあるのですが、郷静子さんのレクレイムという小説はおそらく現実にあったことにちかく書かれたものと思います。詳細を忘れてしまっているのですがこの小説はごく普通に暮らす庶民にとっての戦争と周囲の人々の運命をえがいていて当時のことがよくわかる小説の一つだと思います。主人公は国や家族思いの女学生で、勤労動員では丈夫でない体の無理を重ねても率先して働く優等生の女性です。いわば軍国少女です。学校ではっきり周囲とはちがっても自分の考えをもって行動する年下の女学生と知り合いになり、何かと相談相手になったりして次第に親友となっていきます。この年下の友人の父親は大学教授なのですが、逮捕されます。友人の家族を襲った不幸を通して主人公は自分が熱心に信じてきた国との板挟みに苦しんでいきます。主人公の周りの青年たちも次々戦場で命を落として行きました。人も物もすべてうしなった彼女は真実を見る感性、目がなかったことを後悔します。


  今「愛国心と信仰の構造」を読んで、戦前の全体主義につながった二つのユートピア思想に出会いました。
この二つの流れ、ユートピア思想は現在の右傾化ととてもつながりが強い面があると思うので「愛国と信仰の構造」をテキストによく考えてみたいと思いました。

  その一つめは
 「すべてのことが神のみ仕業として起こっている、それに対して人間の賢しらというものがある.。この賢しらこそが漢意であり、大和心はすべて神のみ仕業であり、いわばありのまま神に髄順することをよしとする大和心こそがこの国の国体を支えている」
という国家神道、国体論が、親鸞思想の「計らいを超えた弥陀の本願」という他力思想と親和性を持ち、弥陀の本願が天皇の大御心とすりかわっていくという流れになった浄土真宗の他力思想と全体主義への流れです。

 もうひとつが
 日蓮主義と国家ナショナリズムとの関係です。こちらはもともとももっている日蓮主義の改革の志が国体論や国家主義に合体することによって、世界を一つにするという拡張主義になっていったことです。

 次回このことについてもっと詳しく考えてみたいとおもいます。




 

今、どんな風が吹いているでしょう。

 国を守るには血を流す覚悟が、私たちの生活だけが大事なんじゃなくて先人がいきついてきた世界中の日本だけが道義国家を目指す責任がある、資格がある。

これは日本の大義を「酒田法廷」で堂々主張した石原莞爾の言葉です。

いま、どんな風が吹いているのでしょう。いや、どんな風を吹かせたいと思っているのでしょうか。

 昨日の新聞にミサイル発射を繰り返す北朝鮮を念頭に、自民党の安全保障調査会が敵のミサイル基地をたたく「敵基地攻撃能力」の保有に向けた検討を直ちに開始するよう求める提言を安倍晋三首相に提出したというニュースが出ています。

今一生懸命読んでいる本があります。熱中しているので他は少しお休みです。「愛国と信仰の構造」です。ほかに同時進行で読んでいる小説があるのですが、どちらも読み終わったときどんな感想になっているのか楽しみです。

 人の受け止め方は様々だと思うので、あくまで私自身の感じですが、日本はとてもいい国で住みやすい国、勤勉で人に優しく、礼儀正しい国だと思います。でもその一方で時に息苦しく、これが自分が望んできた社会や生き方なのだろうかと思うことも多く、悩むこともおおくなっています。自分はどこに着地するのだろうか。残る時間が少なくなった今考えます。
 
 戦前、戦中をいきて戦後廃墟になってしまった日本のなかで、坂口安吾が語った言葉が日記のなかでみつかりました。古代文明が全滅しても、生活は滅びず、生活自体が滅びない限り、我々の独自性は健康なのである。絶対のものがあり得ないという立場から、中途半端を廃し、なきにしかざるの清潔を選んだ。
 無きにしかざるの清潔、釈迦が説いた教えと通じるところがあるように思うのですが。
 プライドってとても厄介なしろものだと思います。自己愛のひとつであるプライドなんて振り回すとろくなことがないように思います。でも自分は存在していることも否めない、自己愛のない人などないのですからこの自己愛(エゴ)の在り方こそ問題なのかもしれないと思います。