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前回の続きです。

 買いたい本があって本屋さんに行きました。ああやばいですね。「正義がゆがめれる時代」など四冊も買ってしまいました。旅行も友達とのお茶のみもなるべくしないようにして出費を少なくしているのに4800円の支出痛いです。
 ところで今日読んでいた本にこんな記述がありました。
 「戦後から70年代初めにかけての奇跡的ともいう経済成長は戦争ですべてが廃墟になった戦後復興にすぎない。この成功体験からすでに「成長の時代は終わったのに、終わったことにしないでだましだましやってきた。不可能性の時代に不可能を可能にするのは不正だけなのだ」
 これってああ、実感と思いました。
 需要できる経済力がなくなっているのに供給過多に。
 それにしてもこれから読書中心になってしまいそうです。

 
 「愛国と信仰の構造」全体主義はよみがえるのかを読んで、今の日本の状況がどちらの方向に進むかの大変な分かれ道になっていると思いました。
 なぜニイルの本をもう一度考えてみたいと思ったかはこれからの日本も世界も人を生かす社会になるか、人を殺す社会になるかの大変な分かれ目になっていると思ったからです。
 自分のことを自分で決めることができる自由と人と人の権利はフィフティヒィフテイという民主主義のもとに育てようという命を愛する人たちと懲罰や禁止、軍国主義など憎悪の人生否定との戦いであるとニイルは考えました。
 ニイルの言う自由は勝手気まま、自己中心の放縦の意味ではありません。



 国や民族、また個人のレベルでも歴史や伝統皆それぞれ違い、考え方も違いますが、人間であるという共通項があります。違いを認めながらそれでも共存するためには同じ人であるという共通項に立つ以外ないのではないかと思います。その共通項は命の尊重です。釈迦は殺傷をしてはいけないといいました。自分の命が大切なように相手の命も大切であると。
 憲法を改正しなければならないと考える理由はなんでしょうか。どうしてそう考えるのか、その主張を少しずつ読んでいますが、私はどうしても賛成ではありません。主な意図される憲法改正点は軍隊の明記と集団的自衛権と交戦権、武器使用など、さらに基本的人権の問題などでしょうか。
 
 

 「破壊と死に導くもの、そこには絶対に救いはない」というニイルの主張は正しいように私は思いました。
  
 次回戦前と戦後憲法の違いをもっとよく勉強してみたいと思います。

再びニイルにもどって考えてみる。理想と現実の間

 
 
   ニイル著作集6 問題の家庭から思うこと

 ニイルは人間の問題、世界の問題を問題の子の教育という長い間の実践とその観察から、今日の不安に満ちた社会を根本的に考察した人だと思います。
 イギリスのサマーヒルでの生涯を通した問題を持つ子を作らない教育実践で、教育のあらゆる方面にわたって問題の背後に何があるかを解明しました。そして子供たちの良き発達のために何をすべきか、新しい子供の取り扱いについて提言しました。問題の子とは不幸な子、問題を抱えた子どもという意味でしょうか。ニイルは問題を持つ子を作らない教育をとおして、闘争と破壊、疾病、戦争の絶えることのない世界から、真に平和で幸福な世界を築くことができると確信する卓抜な世界観をもつ偉大な思想家でもありました。

 今、日本では憲法改正の問題、喫緊のところでは共謀罪を巡る問題が議論されているのですが、根本にある問題に目を届かせることがおろそかになっているのではないかという疑問を持ちます。
 たとえば共謀罪ですが、犯罪になる前の計画、相談、準備の段階で取り締まるという法案ですが、この法律が適用される犯罪の範囲が明確ではなく(私などは読んでもいないのですが)、それが計画、準備段階の取り締まりだというのですから、普段からの監視が必要になります。
盗聴や市民からの通報、密告、通信傍受、車の移動監視などが行われ、取り締まる側の職権乱用や恣意的操作によって普通に暮らす人の基本的人権や思想信条の自由や表現の自由などまで取り締まりの対象にされ侵害される可能性も心配されています。もしわたしが今の政府の方向は危険だと思うと発言したとしたら、国家転覆の危険性ありと戦前そうだったように監視の対象になるのでしょうか。
 犯罪に脅かされる現実があり、安心して日常生活をおくることができないようになっていることも実際ですから、犯罪の取り締まりを強化してほしい、安心して生活できる社会になってほしいと思うのは市民の願いです。
 
 憲法改正の問題でも戦後の民主主義、基本的人権の尊重などによってあまりに自由や人権が尊重された結果利己主義がはびこってしまった、日本の心が失われているので日本の伝統文化に立ち返るべきという考えが日本会議や自民党、一部の政党にもつよくなっています。

 又日本の安全保障をめぐる問題では、中国や韓国、北朝鮮との関係を巡って安全保障環境が変化していると一部では憂慮する声がつよくなっています。そのために日本も軍備を増強して防衛すべきと。

 これらのなかなか解決の難しいい悩ましい問題の基本問題はなんでしょうか。

 理想と現実の間

 人間であることと人と人の間。人の住む世界と国と国の間  ということでしょうか。

 わたしにはニイルはこれらのことの根本に立ち返って考えたように思えるのですが。



 そのニイルの主張の一部から、
  子どもの困った行動を起こすコンプレックスの原因を知るだけでは子どもをよくすることはできない。この事実を知るためには私にとって長い年月を要した。子どもを直すということだけが教育者としての重要な任務ではない。教育者の仕事は子どもを直すということなどが必要のない新しい時代を生み出すことである。

 「子どもを直すということなど必要のない新しい世界」とは、ニイルはどういう世界をイメージしたのでしょう。ここにニイルが単に教育者にとどまらない卓越した世界観を持つ思想家であることがしめされているように思います。

 コンプレックスという言葉を知った初めのころ、コンプレックスというのは劣等感という意味と思っていたのですが、そうではなく無意識下の、あるいは一部意識された意識の塊のようなものという意味のようだと分かりました。劣等感とか、ある種の恐怖とか不安とか、先入観、偏見などこれらは人を左右しているコンプレックスということができるのだろうと思います。
 個人にとって重要な意味をもってその人を動かしている無意識下の塊はその人を苦しめたり、思わぬ方向につれていってしまったりしますから、自分をよく知るということはこうした苦しみをよく知ること、客観的に物事をとらえる訓練によってコンプレックスから解放される、あるいは冷静な対処の仕方ができるようになるということなのかと思います。
 コンプレックスは青年でも老齢でも年齢を問いませんが、子供は自分で自分の心を表現したり理解したりできませんから、大人が理解する必要があります。ニイルがこどもの困った行動を起こすコンプレックスの原因を知ってそれを取り去ってやることといっているのはそのためです。

            次回に続けます。
 
                      

再びニイルにもどって考えてみる。憲法問題をかんがえるために。二 [雑感]

 
 
 人生をあまくみるな。100年に一回、いや1000年に一回しかないような時代の大きなうねりに直面していながら、ただ一つ変わっていないのが日本人のメンタリティー。与えられることに慣れすぎている。あるいは与えられるのを待っているーーーーという落合信彦さんの指摘、わたしも同じように感じますが、個人的には人生を甘く見るなという戒めは日々強くなります。

 なぜというと、
 明治維新からの80年、戦後70年のその時代を考えると世界や社会がどう変化しているのかがわかるように思います。明治以降この間は不況や戦争をはさみながらも経済拡大を築きました。人類は経済的に成長を続けてきたといっていいのだと思います。でも経済的拡大が人間の幸福と全く同じかというとどうでしょうか。ある時期から富の偏在は拡大し続けています。地域的紛争もいつ終わるかわからない状態で続いています。生存ができないという人も大量に生み出されています。自然破壊も進んでいます。これらはプラスの一方で進んでいる負の側面だと思います。

 グローバル化が進行する中で、世紀のモンスターが世界を支配するようになっているというのは本当ではないでしょうか。はじめは軍産共同体が戦争がないと死んでしまうからあちこちで戦争を仕掛けてきた、今は国境がない国際金融投機が世界を支配しているといわれていますが。北朝鮮を巡る危機も北朝鮮のキム体制の問題だけで作り出されているのではないと思います。日本のマスコミの報道はキムジョンナムの危険性だけの問題のように報道されました。日本での危機感が韓国以上だったというのもいかに作り出されたものか、それが利用されている側面もあるのではと思います。

 朝鮮動乱は冷戦下での東西対立で、パルチザン闘争をしながら北朝鮮を独立に導いた金日正が率いる北朝鮮と中国ソ連対アメリカ韓国の連合軍との闘いでした。この戦争は東西冷戦の戦いでアメリカにとってイデオロギーをめぐる重要な意味があったのだと思います。この時同じ民族が南北に分断されました。東西の冷戦がなくなった今、世界の孤児のようになった北朝鮮を巡る問題が危機として浮かび上がってきたのはかってとは異なる要素が複数あるのではないかと思います。
 
 

 自分一個のことではもう老齢だから、先がながくない、自分なりに頑張ってその結果どう一生を終わってもいいと思うのですが、でも親であり、次の世代、これから先の時代について責任はないのかというとそうは思えないのです。親として何が問題だったのか、自分の経験を振り返ってみることはとても大事だと思っています。


  ニイル著作集6 問題の家庭から。

 なんと時代を予言していることかと思いました。
 ニイルはイギリスのサマーヒルでの生涯を通した問題を持つ子を作らない教育実践で、教育のあらゆる方面にわたって問題の背後に何があるかを明らかにしました。子供たちの良き発達のために何をすべきか、新しい子供の取り扱いについて提言しました。問題の子とは不幸な子という意味です。問題を持つ子を作らない教育をとおして、闘争と破壊、疾病、戦争の絶えることのない世界から、真に平和で幸福な世界を築くことができると確信する卓抜な世界観をもつ偉大な思想家でもありました。

   次回にもっとニイルの教育実践と自由の問題について考えたいと思います。


 



再びニイルにもどって考えてみる。憲法問題をかんがえるために。 一 [雑感]

 さわやかな緑の風に誘われて散歩に行きました。落合信彦さんの「豚」の人生、「人間」の人生という本をもって出かけました。
 この本が出版されたのは1999年4月でだいぶ前ですがその頃購入したのに、ほとんど読んでいなかったようです。
 
 人生をあまくみるな。コマーシャリズムに流されるな、人生の目的を見定めろ、本当の危機意識を持てなど、共感するところが大です。なにが危機か、この本が書かれたころよりもっと今のほうが両極化がすすみ深刻化しているように思います。対話と民主主義が形骸化していると感じるからです。

 本の中から

 今の日本は、古代アテネの世界最古の民主主義が崩壊していった過程とよく似ている。歴史家のトゥキディデスが言っているように、市民の一人一人が「誰かがやるだろう」「俺には関係ない」と思い始めたときから民主主義が崩れていった。で、アテネ市民よりもはるかに能のない人間が出てきて独裁者になっていくとしたら。

 財産ばかりか、命まで奪う国。
 日本の最大の無駄と言ったら、やっぱり政治家だな。それも害のある。日本の政治家はすべて甘くみている。97年大局を見誤って、消費税を3パーセントから5パーセントにあげても、大丈夫、「国民は何も言わないから」、結局経済危機を迎えちゃった。オレなら不明を恥じてバッジを外す。ところが一人でも「何もできなかった」と言って頭を下げてバッチを外したやつはいるか。この日本を大きくし、支えてきた中小零細企業がどんどんつぶれ、経営者が自殺していった。
とんでもない不良債権を生み出した銀行には公的資金を使い、ひたすら一生懸命働いてきた中小企業は見殺しにされた。日本を支えてきたのは彼ら。バブルは人災なんだからしっかり考えなきゃだめなんだ。
 涙のない政治にこそキレろ。君たちには無能な政治家を首にする義務がある。
 
 ズバリと鋭い、ああと考えさせられる内容です。若いこれからの人に読んでほしいなと思いましたが。




 憲法改正を巡る議論がさかんになってきました。安倍総理が2020年に憲法改正をしたいと日程をあきらかにしましたから、その是非はともかくとして憲法についての議論が日程にあがってくることは確実でしょう。
 今日、NHKスペッシアル「憲法・70年の潮流」という番組を見ていましたが、憲法についての議論の難しさを痛感しました。あらゆる要素が複雑にねじれあっているからです。十分に時間をかけてしっかり議論すべきだし、わかるようにしっかりした整理が必要ではないでしょうか。ゆめゆめこれだけの時間議論したからなどとセレモニーにすることがあってはあらないと思います。

 最近インターネットの記事で、ある大学の法学部の新入生を対象とした調査で若い人に憲法改正に賛成か反対かを調査すると5対4くらいの割で改正に賛成になるそうです。
 

 なぜ憲法改正が必要と考えるかについて。その理由であげられていたことが時代の変化に合っていないというもの。そして武力を持ち、自由に使う権利を認めることがそのまま戦争につながるとは思わない、自国を守るため、攻撃されない国作りが必要という、どちらかというと社会的変化に敏感な考え方のようです。法学部の学生でも憲法と法律の違いが分からなかったり、なんとなく今の社会が変わってほしいという気持ちがあって憲法を改正するとそうなるのではないかという気持ちもすくなくないようです。

 一方護憲派の考えは戦争を絶対的に否定する考えに支えられ、社会情勢に左右されない。むしろ問題の解決に武力による威嚇や戦争を用いないとした、過去の何度かの戦争の惨禍の教訓から導き出した平和主義や国民主権、立憲主義などをもっと自分たちの血肉にすべきという考えのようです。

 二つの考えの違いは簡単に埋まらないように思われますが、それだけにあらゆる角度からどれだけ議論が深められるかではないでしょうか。明日の世界をどういう世界にしたいのかが問われています。