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一即多、多即一.と天上天下唯我独尊の二つの言葉から  民主主義 [雑感]

6月23日、今日は太平洋戦争末期沖縄戦の戦没者慰霊の日です。
 

 一即多多即一という言葉は折に触れなにかにぶつかるごとに考える言葉です。この言葉に出あったのはもう何十年か前のことだったと思います。芥川賞作家の大城立裕さんの本の中だったと思います。書名を忘れてしまったのですが、沖縄の歴史とご自身の苦悩を描かれた本だったと記憶していますが、この本の中に一即多多即一という言葉が出てきました。沖縄の人の苦悩と歴史をはじめて知ったのはこの本でした。一即多多即一という言葉も天上天下唯我独尊も仏教の経典の中に出てくる言葉のようですね。

 一即多多即一の意味は自分の中に社会のみならず全世界の一切が含まれ、果ては大宇宙に連なる、自他合一、自分などというものはないという意味のようですが、世界に含まれ、世界を含むその一である個人は他人と別の唯一の存在。それが天上天下唯我独尊の意味かと思います。
 仏教にいう無の理解は難しいと感じてきましたが、すこし理解できたような気も。
生きていく上でいろいろの悩みや不安をもつ実際の自分を客観的に凝視してみればその存在は一即多多即一の因果の結果でつねに移ろうものであることに気づきます。
独自な自分などというものは存在しない。ということと実際いきている自分という両者であるとわかります。
 実際を生きている個人は釈迦の言葉でいうと、「欲しい欲しい、足りない足りない」という生存本能に突き動かされている存在。 
 自分一個のように思っている個人はこのように全世界宇宙につながっている存在なのですが、実際の自分が意識する認識は世界や宇宙のなかの些細な点のような認識にすぎない。どんなに頑張って努力した人でも個人の認識は限られていて、無明無知なのだと思います。そこに絶対や一なるものはない。民主主義はこの事実から出発していると思います。多様である事実を認めるその前提にたって共存や共生するシステムと思います。

 戦争が終わったのは五歳のときでしたから戦後の教育が始まった最初の年代にあたります。戦後教育を受けた、最初の世代が戦後の民主主義をどううけとめてきたのだろうかと考えます。戦後の民主主義教育が日本人の魂をダメにしたと考える人たちがいるのですがほんとうにそうなのでしょうか。
 戦争や戦争の時代を知ったり勉強したりするようになったのは学校教育の中ではなかったと思います。社会科の中のそれもほんのちょっとしか触れられない近代史ですから何も知らないといっていいのです。ただ当時は敗戦後の混乱を極めた時代でした。そこには食料を求めてぎゅうぎゅう詰めの列車で農村に買い出しに来る人達がたくさんいましたし、上野駅には何年も浮浪者がたくさんいました。親を亡くし住むところを無くした子どももたくさんいました。自分の身辺だけでなく映画や書物などを通して世界全体を覆った大戦の姿を知りました。しかし、戦争について今になって知らなかったことを知ることはたくさんありますし今になってからのほうが戦争についてよくわかるように思います。当時を知り学ぶことはこれからの時代が平和であるために大切なことと思っています。

 今日の朝日新聞朝刊に孤児として過ごした苦しい時代を見つめなおし、語り始めた「沖縄の孤児、語り継ぐ」という記事がのっていました。その記事の一部から。

 72年前の沖縄戦では一千人以上の孤児を生んだといわれています。
 孤児の一人、嘉陽宗伸さんは当時7歳、一緒に逃げた祖父と母は目の前で砲弾に倒れた。「バーンと音がして、母が覆いかぶさってきた。お腹の中が出て、、、二人即死だった。4~5日が過ぎたころ、米兵に見つかり、トラックに乗せられ、50人ほどの子どもが詰め込まれていたゴザ孤児園と呼ばれていた民家で嘉陽さんの戦後が始まった。2~3歳の子ども15人ほどをつれてこの孤児園で働いたことのある本村つるさん(92歳)の話「ミルクを飲ませるんだけれども、下痢してね。服もおしめもない。雑魚寝の子供たちは朝起きると体中、便まみれだった」
 沖縄の過酷を極めた戦争の姿がありありとうかがえます。
 
 時代は目まぐるしく新しく移り変わるのですが人間の基本はかわらないのではないでしょうか。
 戦争へと進んだ当時と現代人がどれほどちがっているのでしょうか。違っていると信じたいのですが。    
                   (続く)                
 

再びニイルにもどって考えてみる。憲法問題をかんがえるために。二 [雑感]

 
 
 人生をあまくみるな。100年に一回、いや1000年に一回しかないような時代の大きなうねりに直面していながら、ただ一つ変わっていないのが日本人のメンタリティー。与えられることに慣れすぎている。あるいは与えられるのを待っているーーーーという落合信彦さんの指摘、わたしも同じように感じますが、個人的には人生を甘く見るなという戒めは日々強くなります。

 なぜというと、
 明治維新からの80年、戦後70年のその時代を考えると世界や社会がどう変化しているのかがわかるように思います。明治以降この間は不況や戦争をはさみながらも経済拡大を築きました。人類は経済的に成長を続けてきたといっていいのだと思います。でも経済的拡大が人間の幸福と全く同じかというとどうでしょうか。ある時期から富の偏在は拡大し続けています。地域的紛争もいつ終わるかわからない状態で続いています。生存ができないという人も大量に生み出されています。自然破壊も進んでいます。これらはプラスの一方で進んでいる負の側面だと思います。

 グローバル化が進行する中で、世紀のモンスターが世界を支配するようになっているというのは本当ではないでしょうか。はじめは軍産共同体が戦争がないと死んでしまうからあちこちで戦争を仕掛けてきた、今は国境がない国際金融投機が世界を支配しているといわれていますが。北朝鮮を巡る危機も北朝鮮のキム体制の問題だけで作り出されているのではないと思います。日本のマスコミの報道はキムジョンナムの危険性だけの問題のように報道されました。日本での危機感が韓国以上だったというのもいかに作り出されたものか、それが利用されている側面もあるのではと思います。

 朝鮮動乱は冷戦下での東西対立で、パルチザン闘争をしながら北朝鮮を独立に導いた金日正が率いる北朝鮮と中国ソ連対アメリカ韓国の連合軍との闘いでした。この戦争は東西冷戦の戦いでアメリカにとってイデオロギーをめぐる重要な意味があったのだと思います。この時同じ民族が南北に分断されました。東西の冷戦がなくなった今、世界の孤児のようになった北朝鮮を巡る問題が危機として浮かび上がってきたのはかってとは異なる要素が複数あるのではないかと思います。
 
 

 自分一個のことではもう老齢だから、先がながくない、自分なりに頑張ってその結果どう一生を終わってもいいと思うのですが、でも親であり、次の世代、これから先の時代について責任はないのかというとそうは思えないのです。親として何が問題だったのか、自分の経験を振り返ってみることはとても大事だと思っています。


  ニイル著作集6 問題の家庭から。

 なんと時代を予言していることかと思いました。
 ニイルはイギリスのサマーヒルでの生涯を通した問題を持つ子を作らない教育実践で、教育のあらゆる方面にわたって問題の背後に何があるかを明らかにしました。子供たちの良き発達のために何をすべきか、新しい子供の取り扱いについて提言しました。問題の子とは不幸な子という意味です。問題を持つ子を作らない教育をとおして、闘争と破壊、疾病、戦争の絶えることのない世界から、真に平和で幸福な世界を築くことができると確信する卓抜な世界観をもつ偉大な思想家でもありました。

   次回にもっとニイルの教育実践と自由の問題について考えたいと思います。


 



再びニイルにもどって考えてみる。憲法問題をかんがえるために。 一 [雑感]

 さわやかな緑の風に誘われて散歩に行きました。落合信彦さんの「豚」の人生、「人間」の人生という本をもって出かけました。
 この本が出版されたのは1999年4月でだいぶ前ですがその頃購入したのに、ほとんど読んでいなかったようです。
 
 人生をあまくみるな。コマーシャリズムに流されるな、人生の目的を見定めろ、本当の危機意識を持てなど、共感するところが大です。なにが危機か、この本が書かれたころよりもっと今のほうが両極化がすすみ深刻化しているように思います。対話と民主主義が形骸化していると感じるからです。

 本の中から

 今の日本は、古代アテネの世界最古の民主主義が崩壊していった過程とよく似ている。歴史家のトゥキディデスが言っているように、市民の一人一人が「誰かがやるだろう」「俺には関係ない」と思い始めたときから民主主義が崩れていった。で、アテネ市民よりもはるかに能のない人間が出てきて独裁者になっていくとしたら。

 財産ばかりか、命まで奪う国。
 日本の最大の無駄と言ったら、やっぱり政治家だな。それも害のある。日本の政治家はすべて甘くみている。97年大局を見誤って、消費税を3パーセントから5パーセントにあげても、大丈夫、「国民は何も言わないから」、結局経済危機を迎えちゃった。オレなら不明を恥じてバッジを外す。ところが一人でも「何もできなかった」と言って頭を下げてバッチを外したやつはいるか。この日本を大きくし、支えてきた中小零細企業がどんどんつぶれ、経営者が自殺していった。
とんでもない不良債権を生み出した銀行には公的資金を使い、ひたすら一生懸命働いてきた中小企業は見殺しにされた。日本を支えてきたのは彼ら。バブルは人災なんだからしっかり考えなきゃだめなんだ。
 涙のない政治にこそキレろ。君たちには無能な政治家を首にする義務がある。
 
 ズバリと鋭い、ああと考えさせられる内容です。若いこれからの人に読んでほしいなと思いましたが。




 憲法改正を巡る議論がさかんになってきました。安倍総理が2020年に憲法改正をしたいと日程をあきらかにしましたから、その是非はともかくとして憲法についての議論が日程にあがってくることは確実でしょう。
 今日、NHKスペッシアル「憲法・70年の潮流」という番組を見ていましたが、憲法についての議論の難しさを痛感しました。あらゆる要素が複雑にねじれあっているからです。十分に時間をかけてしっかり議論すべきだし、わかるようにしっかりした整理が必要ではないでしょうか。ゆめゆめこれだけの時間議論したからなどとセレモニーにすることがあってはあらないと思います。

 最近インターネットの記事で、ある大学の法学部の新入生を対象とした調査で若い人に憲法改正に賛成か反対かを調査すると5対4くらいの割で改正に賛成になるそうです。
 

 なぜ憲法改正が必要と考えるかについて。その理由であげられていたことが時代の変化に合っていないというもの。そして武力を持ち、自由に使う権利を認めることがそのまま戦争につながるとは思わない、自国を守るため、攻撃されない国作りが必要という、どちらかというと社会的変化に敏感な考え方のようです。法学部の学生でも憲法と法律の違いが分からなかったり、なんとなく今の社会が変わってほしいという気持ちがあって憲法を改正するとそうなるのではないかという気持ちもすくなくないようです。

 一方護憲派の考えは戦争を絶対的に否定する考えに支えられ、社会情勢に左右されない。むしろ問題の解決に武力による威嚇や戦争を用いないとした、過去の何度かの戦争の惨禍の教訓から導き出した平和主義や国民主権、立憲主義などをもっと自分たちの血肉にすべきという考えのようです。

 二つの考えの違いは簡単に埋まらないように思われますが、それだけにあらゆる角度からどれだけ議論が深められるかではないでしょうか。明日の世界をどういう世界にしたいのかが問われています。
 


 
 

危機は作り出されているのか。 [雑感]

 
 テレビの報道を見ていてずっと疑問に思うことがありました。もし自分が日本人ということを抜きにして今の世界のニュースをみたらどうだろうかと。例えば日本の報道は韓国や日本、アメリカを挑発しているのは北朝鮮だという前提で報道されています。それ以外の見方を聞いたことはほとんどありません。北朝鮮は悪で脅威であるから、北朝鮮の体制は変えなければならないという報道がほとんどです。アメリカの韓国や日本の基地を使った軍事作戦も日本や韓国にとっての脅威を取り除くための行動として日本政府はずっと全面的に支持しています。むしろ日本がお願いして守ってもらっているという立場です。だから危機があおられるにつれこれに対処するためにもっと軍事力を増強しなければならないという声が強くなります。
 兵器産業はより強力なものにする競争に果てしがありません。こんな高額な破壊兵器を買うのは国だけです。国民の税金が破壊兵器に使われてです。北朝鮮でも韓国でも、日本でもアメリカでも軍事産業はますます強大に、生活に苦しい国民は負担を強いられ、ますます国民生活は苦しくなるでしょう。

 危機は必要以上につくられているという疑問を感じますが、報道にはこうした疑問は少しも出てこない。日米政府の方針に乗った北の挑発はあるのか、あった場合はという報道ばかりで違和感がぬぐえません。


 北朝鮮から見たら、日米韓の軍事演習や金正恩の斬首作戦を含む軍事行動はアメリカの挑発と見えるのは当然ではないでしょうか。

 私は北朝鮮の一糸乱れない軍人の行進など見るととても住みたくない国です。北朝鮮の中がどうであるのか、人々の暮らしがどうなっているのか、よくわからないし、正確な判断はできませんが、今の政治体制は不幸ではないかと思っています。さらに拉致など許せない行動であり、何をおいてもすぐに拉致された人は返されなければならないと思いますが、他の国がその国の体制を武力などで強制的に変えたりすることが許されることでしょうか。なぜなら、その国の在りかたはその国の国民が判断することではないでしょうか。もし無理にそうしたら、北朝鮮の国民にも大きな犠牲が出るでしょう。
 核の脅威がないとは言えないことですが、何もしない相手に核兵器を使うことは現実的ではありません。危機を少なくする努力は別にあるのに、なぜ今北朝鮮問題なのでしょうか。

  
 

簡単に迷いだす [雑感]

 もともと記憶力がいいわけではないのですが、年にともに明らかに記憶がなくなることが多くなっています。前回書いたブログの中の書名、「日本は大戦にまきこまれる」は不確かなのでメモがあるかさがしていたのですが、正確な書名がわかりました。「日本に恐ろしい大きな戦争が迫りくる」副島隆彦著 講談社 2015です。出版アメリカ大統領選がまだ終わらない前に書かれていますが、現在の状況を見ると一段と世界の動きは不安定さを増しているようにみえます。北朝鮮を巡る動きは危なっかしいです。どちらかが先に武力を用いなければ戦争にはならないはずですが、相手を倒す理由を見つけると武力を使ってもやっつけなければならない、世界がこういうことの繰り返しをしているのはわたしにはやりきれなく思われます。

 稲田朋美防衛庁長官は「戦争は霊魂の進化に必要な宗教的行事、それが私の生き方の根本」「靖国神社というのは不戦の誓いをするところではなくて、祖国に何かあれば後に続きます」と誓うところでないといけないということをいっているそうですが、これは伝聞なので正確かどうかわかりませんが、最初戦争は霊魂の進化に必要な宗教的行事というに至ってはええーっと理解できませんでした。祖国防衛とか戦争とかが稲田さんにとって大変重要なものなのでしょう。
 元に戻って先の本を読んだとき、日本の安全が脅かされると浮足立って右往左往するのではなく、冷静に足元から平和について、暮らしについて考えたいと思いました。

 昨年後半のノートをくっていたら、今も頭のなかをくるくる旋回している疑問に対する答えのようなものにぶつかりました。
親ってとか、家族とか、親としてずっと考えました。自分が考える善悪とか、何が本当で何が嘘なのか、とかをはっきりつかみたいという欲求はあるのですが、その反面でそれは無理だよとか無駄だよとかいう声もどこかでするのも事実なのです。えー、どっちよと思うのです。それに対する答えかなと思う、読んだ本のなかのメモに出会いました。

 完成に持っていく可能性、苦しみ自体は決して無意味なものではなく、苦しみに打ち克つ過程のなかに人生における喜びを見出すことができる。
 年を取るということは個人的な経験を累積すること、永遠の生命というものは、人が年老いていくという過程のなかにつきとめることができる。
 これどんな本からのメモかはっきりしません。

 「知能とは、答えのある問にたいして速く正しく答える能力、知性とは答えのない問いに対して問い続ける能力」これは朝日新聞リーダーたちの本棚に乗っている千葉大学長徳久剛史氏の言葉
 
 親ってとか、家族とか、理想とか希望とか、善悪とか考えることは生涯を通して無意味ではないのです。気ついたところでどうすることもできないのだから、気つくこともしたくないというのは間違いだと思いました。しかし努力は完成形ではなく、不確かなものなのだと思います。

 誰も努力することに意味がなくはないのだと得心できたように思いました。




 



時流 [雑感]

 かっこいい父親というのは難しい時代になったのかなと思います。昔はよく背中をみせるといわれた。しかし今は父親も変化を求められているように思います。家族が力を合わせたり支えあって助けられるようなコミュニケーション力も求められているのかもしれない。男性にも女性にも父親的役割と母性の役割の両方が必要なのだと思います。
問題は父性の役割が今とても難しい時代なのではないかということ。

 今、大阪豊中市にある森友学園の国有地格安払下げ(大阪だけでなく他にも同じようなケースがあるようです)を巡って国会も巻き込む大きな問題になっていますが時流ということを強く考えさせられました。
なぜ森友学園の建設が特別な扱いを受けたでしょう。わたしはこういう小学校、ひいては中学さらに上級学校の建設を日本に必要と考える人達の力、政治家抜きには考えられないと思います。安倍首相も首相夫人もこの幼稚園教育を素晴らしいとほめたたえています。幼稚園で教育勅語を素読させたり、「日本を悪者として扱っている中国韓国が心を改め、歴史でうそを教えないようにおねがいします」「安保法制国会通過良かったです」などと運動会の選手宣誓で発言させているなどこれが幼稚園児が本当に考えることなのでしょうか。 
 おりしも自民党は首相を三期続投してもよいという党則を決めたそうです。
 時の流れ、動きが世界中なぜか怪しく思われます。「日本に恐ろしい大きな戦争が迫りくる」(副島隆彦著、講談社、2015年出版)という本を昨年読んだことがありました。そのときは書かれている内容をあまり信じたくありませんでした。しかし、ニユースに接しながら日ごろ感じていること、世界の動き、何が起こっているのか、どんな力が働いているのかを理解するのにとても参考になりました。でもこんなときほど、冷静な思考が必要だと思います。


 父性と母性は現実の父親母親ではなく、広辞苑では父性を父として持つ性質と書いていたりしますが良しあしとか規範とか物事を分ける働きであり、母性は逆にすべてを同じものとして保護する働きで、人の社会には父性と母性の両方が同時に必要なのだと思います。それは一人ひとりがみな違い、国や集団も、状況もすべてが同じではなく異なるがゆえに、良し悪しなどを区別することと受容し保護することはどの生命にとっても必要なことです。
 日本は長いこと母性的性格の強い社会といわれてきましたが、今はどうでしょうか。超父性社会になっているのではないでしょうか。
その超父性社会を維持するための精神的機構が戦前の超国家主義教育の復活なのだと思います。教育の問題は簡単ではないので別の機会にゆずりたいと思います。

 
 


人はなぜ危うい道をえらぶのだろう。 [雑感]

知性の劣化とも思えることがなぜ進むのでしよう。

 家の中に理解者がひとりもいなかった
 親はなにもしてくれなかった
 孤独で押しつぶされそうだった
 友人、知人がほしかった
 すべてが文句にしか聞こえなかった
 自立したくても自立の方法を知らなかった

この叫びは引きこもっていた子供たちが当時を振り返った時の言葉だそうです。今もこうした心の叫びを抱えている子供や大人がいるのではないかと思います。こんな悲痛な叫びを考えるととてもたまらないし、こうした叫びを知らなかったり、無視したり、本人の問題としたりしてしまうとしたらなんと薄弱な世界でしょうか。今ある本を読んでいるところです。出版大賞を取っているそうですから多くの人に読まれているのでしょう。まだ途中で最後まで読んでいないうえに内容をしっかり吟味しているわけではないのではっきりした感想とは言えないので,書名も書きません。しかしとても疑問をたくさん感じました。

結論が不愉快なためではありません。どんなに不愉快な結論であってもそれが事実や真実ならそれは仕方のないことだと思います。しかしそれが真実であると結論するには慎重な、さらに謙虚な検討態度が必要だと思います。

 社会の進歩においつかない知性の劣化ともいえることがなぜ進むのでしょうか。一つはアイデンティテイをどう考えるかと関係するのかもしれませんが、釈迦が生きていた時代と現代ではとてつもない変化です、ただ人間が人間でなく別の生き物になったわけではなく人間という生き物である本質には変わりはなく、人間社会を変化発展させてきたのはその人間です。その人には二つの側面があります。人という個体、生き物である本質と社会の中にある、社会に帰属しているという二つの側面です。そのバランス、個人にとって良いバランスであるかどうかの問題が知性ではないでしょうか。しかし社会の変化発展は個人という人間を超えて発展するので個人が壊れていく。もっと生き物としての自然性が回復されなければならないのではないかと思うのですがどうでしょうか。


いるとあるの違い [雑感]

 何に書いてあったのか、はっきりしなくなっているのですがいるとあるは違うと書かれているのを読んで、居ると在るの違いについて時々考えていました。そして最近報道などを身ながら感じたことです。
例えば公園に何人かの子供がいたとしましょう。三人とかあるいは五人とか数えることができます。しかし三人なり五人なりそこにいる人数は分かっても一人ひとりが居る、存在しているその中身の在りようまでは分かりません。
意識し可視化できる場合のことは「ある」で、存在しているらしいけれども意識したり認識にまでたどり着かないものを「いる」と考えることもできるのでしょうか。目で確認できる、あるいは表面的に見えるものは誰にも分るのだけれども、表側から見えるものだけではない見えないものがこの世界には多く、この社会を作り上げているものなのでしょう。

 さきごろ、原発事故の被害によって福島を離れなければならなかった小学生が移住先の同級生の何人かから賠償金があるだろうとお金を出させられていたという事件がありました。この事件について横浜市の教育長がお金は生徒が自分で納得して提供していたのだからいじめではないというコメントを出したということが報道されていました。この教育長は表面だけをみていると思いました。このように表れている表だけ、その一部分で物事を判断することが教育の重要な仕事をしている人にあるのはとても驚きでした。いや社会のいろいろなところにこうした目に見えるものしか見ない傾向は広がっているのかもしれません。
 これは何を意味しているのでしょうか。

 トランプアメリカ大統領の就任から、人類終末までの時計の残り時間が3分から2分30秒にかきかえられました。トランプ大統領が核兵器の使用も辞さないという姿勢を示したこと、地球温暖化を抑える政策に同意しないと表明したことなどによって、終末までの時間が短くなったと考えられたようです。
 1987年、米ソ冷戦下で核兵器が使用されてはならないと恐れた当時の世界の指導者によって中距離核戦力全廃条約が調印されましたが、その時のソ連共産党書記長だったゴルバチョフ氏が、今年になって「政治の軍事化、新たな軍拡競争」に警鐘をならしています。
 
 危機はなぜ生みだされるのか、どうしたらこうした危険な状況を変えることができるのでしょう。誰もが一番苦慮しているのだと思います。軍事予算を増やし、力による抑え込み、危険の防止策も過激派ISのテロ、欧州の難民問題、格差の拡大と貧困などの解決に無力なことを示しています。しかしその政策が唯一有効な方法だと信じたいと思う人は少なくないのかもしれません。

 もともとなぜ危機は生まれるのでしょう。人と人がなぜ危険なのか、それをはっきり知ることから始めれば問題の解決は近くなるのかもしれないと思います。
誰も命を持つものは生命本能ともいうべき生存本能があり、自分の命を大切に思い、自分がかわいい、だからこの世界に生きる場所がなく否定や排除されることはその命にとっての危機です。自分の命がかわいいように他人も自分の命がかわいいのです。だから自分を愛するように他人も愛せば、自分の事情、相手にも事情があること、一緒に解決しようとするなら危険な関係ではなくなるはずです。といっても様々な条件、過去に規定されている人間は簡単ではないのですね。一人、二人と頭数は数えられてもその人の中身、こころまでは分からない、まして本人でも意識しない無意識の世界や実存の状況には届かない。
 でも終末までの時間の針をもどすためには危機がどこから生まれるのか、なぜ生まれるのかについてもっと真剣に考えてみなければならないのだと思います。

現実と主観を考える [雑感]

 昨日はいくつか所用があって駅まで。朝体操と日中の健康教室と合わせて一万歩を軽く超えましたが、急に運動しすぎもどうかなと感じるところもあります。この日増加の一途をたどっていた体重が40キロ代に、二キロくらい減量していることは喜ぶべきことなのでしょうか。

 本やさんで3冊文庫本を買ってしまいました。買わないようにしているのですが。日本会議に関した本と「漱石の思い出」いまテレビドラマで放映中です。読まなくちゃとか読みたいとかいう本がどんどんたまってしまって追いつきません。家の中も少しずつかたずけてはいるもののちっとも進んでいる感がありません。あと一月もしたらすっきりしていたいのですが!
 
 現実と主観の間にはつねに大きなギャップがあると思います。現実を人間の営みをふくむ宇宙のあるままの推移、因となり果となる真理と考えると、人間の主観(自分)は自分勝手な認識や思い込みですから、自分の願いや思うところと現実とのずれや遊離が付きまといます。そして主観は常に物事の真理にうち負かされます。そのたびに自分勝手な主観によらず、自然の理、真理に自分を添わせる以外にないことを思い知らされます。
 
 安倍首相の所信表明演説がありました。その内容をニュースでちょっと聞いただけでよく確かめていないのですが、聞いてもあまり心にしみないから、じっくり聞く気持ちになれないです。
 気になったのは、民主党の蓮舫さんのアベノミクスの検証が必要ではないかという質問に安倍総理が民主党時代の悪口で答えていたことでした。それでは議論にはなりません。

 総務省の8月の家計調査によると一世帯当たりの消費支出は物価変動を除いた実質で前年同月比で4.6%の減少、12月連続のマイナスだそうですが、それは消費できる所得の減少をあらわしているのではないでしょうか。
 
 安倍総理がアベノミクスの成果として雇用の改善をあげていますが、その内容を見ると非正規、不安定雇用の増大で、雇用や働き方がよくなっている実感はありません。先日のNHKで取り上げていた人口減少と消える自治体の不安では、豊島区の場合、区内に流入する人口の大半が20代から30代の若者、年収200万円くらいで将来家庭を持つことが難しいといわれます。そうなると
区が成り立たなくなる心配に直面しています。それは豊島区だけの問題ではなく東京全体、地方自治体でも同じ問題をかかえているということでした。 
 
 
 こうした数字をあげるまでもなく、すべての人とは言わないまでも、国民の少なくない人がアベノミクスは本当にうまくいっているのか、確かに将来に国民に安心をもたらすことができる政策なのかを心配しているのではないでしょうか。

 経済にとどまらず、本当の安心や豊かさはなにかを考えなければならない時期ではないかと思うのですが、そういう時、国の運命を左右する重い立場の総理には、一層の謙虚さが必要だろうと思います。自信に満ちた信念(思い込み)や情念だけに頼るのは危険です。現実と主観ということを考えさせられました。主観は現実の前で打ち負かされることが多いのですから。

今朝の天声人語から思うこと [雑感]

 河上肇さんが朝日新聞に貧乏物語を連載初めてちょうど100年になるそうです。私は貧乏物語を読んでいませんが、天声人語で次のようなことが書かれていました。

 「毎日規則正しく働いているのに、ただ賃金が少ないために生活に必要なものが手に入らない。きわめてわずかな人々の手に巨万の富が集中されつつある。」

 国家有用の材となりうる若者が、貧乏な家庭に生まれたがゆえに十分な教育を受けられないことを河上は嘆いた。学問は決して「過分なぜいたく」ではないのだと。河上は資産家や実業家に人を思いやる倫理を求めた。
 そして天声人語は現代の教育格差に重なる話ではないか、世の中が100年前に似てきたとすれば、あまりに悲しいと。
 

 子供の貧困、親から子への「貧困の世襲化」は始まっています。そして広まってもいます。私は一億総中流と言われる時代に働いていました。あなたは中流ですかという意識調査がありました。大多数の人がはいといい、人々の意識はマイホームへと移っていったように思います。私はそのときなぜか危うい気がしました。失われた10年という言葉を耳にするようになってから30年、先日、友人がこの30年であまり変わったと思えないのだけれどと話し始めたので、私はとても変わった、すごい変わりようだと思うといいました。友人は30年前は多分10代ではないかと思いますので、おそらく物を考える頃はその中にいたのだと思います。
 この30年の科学技術、機械文明の発達はとどまるところがないものだと思います。でもと私は思ってしまいます。なぜか悲しみが積みあがってしまうのです。文明は人間を幸福にしているのだろうかと。もちろん両面があります。富の一極集中、紛争と戦争と対立、分断と憎しみの連鎖、地球環境、自然の破壊の進行だったように思えてしまうのです。共生、和解、平和への努力は続けられながらも。
 
 すべての人にとって、人間の可能性を奪うものを広い視点で考えたいと思います。