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身辺整理 ポツリポツリの記

 
 身辺整理の対象はいろいろあってどこから手を付けたらよいのか、戸惑うばかりです。兎も角何でもいいからはじめなくちゃ、、、。
ブックオフに出すものを段ボールに、とりあえず二箱だしました。読まないと思っても書き込みがあったり、汚れや破損、要らないものはリサイクル品のごみの段ボール箱に、迷うときは目を通してみます。
「老後はなぜ悲劇か」「子どもを愛しすぎてダメにする親」「日本に大きな戦争がせまりくる」「エロスの世界像」「社会学入門」、、、読み始めると次々とまだ捨てられなくなり、手もとにとなってしまいます。思い切りが悪くとてつもなく優柔不断です。
 これではほとんど減らないので、読んだ本から心に残った部分をメモに残しながらブックオフにだすことにするつもりです。
 活字文化はこれからも残るのではないでしょうか。読書習慣は増やしたいですね。本も気やすく安価に活用できる場がふえたらいいなと思うのですが。


 守銭奴になる決意をする


 守銭奴になろうなんて思ったことがこれまでなかったので、果たしてなれるのか、うまくいくのか。守銭奴にならなくちゃと思ったきっかけがあります。他人に迷惑をかけるわけではなく、自分のためというより目的があるから、お金の大切さを考えるようになったのかも。無駄な消費はしないで、使えるお金もわずかだから、お金を使う順番を考えようと。アイツケチになったと思われるかも。
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最終的に勝さるものは?

 希望とか信頼をどこに置くことができるのでしょうか。

 ベトナム戦争が激しかったころ、友人が私につかみかからんばかりに「こんな世界で子どもをうむなんてことができるの」と詰め寄りました。きっと彼女は殺し合いなんてする世界に絶望しいたたまれず、そんな希望のない世界に子どもが生まれたらかわいそうだと、それなのにのんびりしているように見える私が許せなかったのでしょう。私だって彼女とそれほど違っていたわけではなかったのに、そう私に怒りをぶつける彼女に、責めた私に何ができるのと思ったりしました。彼女もその後母親になり、私も母になった。激しい人だったが彼女の気持ちは私も同じです。

 勝るのはやはり命の力でしょうか。その力は人々が寄せあい育てあう力です。

 お互いの命を大切にする人の意思と他人の意思が結び合い、力をはっきするところです。

 自分の本音を無くしてはいけません。自分を無くしてもいけません。相手もまたその人の本音が あり、その人の真実があります。

 生きていくってことはきっとそういうことなのですね。世界はそうして作られていくのでしょ  う。

 人を自分の思うように支配し利用しようという人はなくなりません。しかし支配によって人を幸せにできる人なんてないのですから、そのことを腹の底から知らなければならないと思います。

 
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違和感

 なぜか引っかかる、違和感がどんどん膨らんで、さらに心の底を除くと絶望感のようなものも一部分に積みかさなっているようです。でもこの違和感の正体から逃避して、ニヒルに眺めて憎しみを募らせることはしたくないと思います。愛している人たちや次の世代のことを考えると違和感と向き合って大丈夫だよというところまで進まなければならないと思っています。そこにたどり着けるのかは?ですが。

 知人など周りの人も同じようなことを感じているようです。誰もが、一人一人が考えることを要求されている時代なのでしょう。いつの時代だってそうなのでしょうが、今という時代はそれが昔より必要になった、それだけ進歩したといえるのかもしれません。
 知らないこと、見えないこと、本当のことは知らないということを知らないことに気づかないことがある時、とても重大な結果につながることがあるのだと思います。自分のこれまでを考えてもそういうことがいっぱいあってそのためによくない事態を避けることができなかったという経験の積み重ねだったように思います。
 物事を楽天的に見るか、悲観的に見るかよく問題になりますがそれが恣意的ではなく、より事実に即してあるものの姿をみることから正確な次の一歩を見つけることができると思うので、感度をよくして、自分を無にしたいと思います。

 昨夜「原爆が奪った女学生315人の青春」をみました。事実を見ること、事実を知ること、
 そこからしか始まらないと思いました。自分の都合に合わせるということは人間がいつもしてきたことですね。
 











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店じまいの準備

 大型台風接近のニュースを心配しながら、私は自分の周囲の整理をはじめていました。
ごみ屋敷寸前のような我が家、どこから手を付けていいのかと思うくらいです。私が居なくなって後に残った人がかたずけるなら一挙にすべてごみに出してしまうようなものばかりで悩むこともないのですが、それでも厄介であることに変わりはないでしょう。
「人が生きているということに関して必要なものはそれほどたくさんのことなのだろうか」という最近読んでいた五木寛之さんの言葉に強く共感しながら。なるべくゼロに、身軽に。
 ぐずぐず悩むのは本です。一度は読みたいと思って買った本でまだ読んでいないで読みたいもの、読んだことがあるけれども読み返してみるとまだ捨てられない、とまだ手元に置きたい本が出てきてきりがありません。読んだことがあってもう自分は読むことはないだろうと思う本でもごみにはできない、誰かの役に立つかもしれないなどと考えると本棚から消える本はさらに少なくなってしまいます。一挙にとはいかない、たとえ段ボール一箱でも少なくなればいつか限りなく身軽になるでしょう。
 五木寛之さんの「人生の目的」も積読していたものです。book offに出すかどうか目をとおしていたのです。
 あとがきにこんな文章がありました。
 
 人生に決められた目的はない、と私は思う。しかし、目的のない人生はさびしい。淋しいだけでなく、むなしい。むなしい人生は、何か大きな困難にぶつかったときに、つづかない。
人生の目的は、「自分の人生の目的」を探すことである。自分一人の目的、世界中の誰とも違う自分だけの「生きる意味」をみいだすことである。

 わたしは人生の目的、生きる意味、若い時はっきり考えなかったなと思います。目標のようなものは持ちました。生きる意味と目標はちがうのですが漠然としていたのでしょうか。
自分だけの生きる意味は自分が感じている疑問への答えを探すことです。個別なものです。それはまだ続いているから、会話したい本は残します。

 






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混沌

 混沌としているのは私の頭のなかなのか。それとも社会の実態なのか。
ある程度自分では整理できているように思うところもあるのですが、言葉に定着することができないのです。

 先日とても気になったニュースがありました。連合が「高プロ」の残業代ゼロを基本的に受け入れたという報道です。なんでも次期会長の有力候補であるナンバー2が受け入れを主導したといわれています。
 労働環境の悪化は日本の全体に健康問題にも子育てや家族、生活の質にまで大きな影響を与えている問題。国の将来まで左右しかねない問題ではないかと思います。
 新自由主義経済の進行のなかで生活が破壊されかねないほどに悪化しています。2015年国税庁発表では勤労者の平均年収414万に対し300万以下の人口が4割を占め、貧困率は世界の4番目だそうですから、富裕層と貧困層の二極化が進んでいることをあらわしています。その収入を確保するために家族との時間、睡眠時間、わずかな自由時間まで犠牲にして働いている実態が広がっていいる。いつ契約がきられるかわからないような不安定雇用、非正規化に加え、さらに「高プロ」の残業代ゼロはさらに労働者の生活内容を悪い方向にすすめるのではないか、心配です。生活の実態が見えない人達によって政治が動いているのでしょうか? 良い方向に向かう筋道が見えないことが一番の問題ではないでしょうか。

 混沌としているのは社会、人間社会なのだと思います。でも社会が混とんとしていると思うのはその人の認識なので、混とんとした認識から自分の整理選択をしなければと思います。

 何度か釈迦についてこのブログで書いているのですが、お釈迦様の言葉によって救われたと思ったことがあります。人生は四苦八苦であるということ。誰もこの言葉は知っているよと思っています。しかしわたしは本来生きることは苦であるなどとは考えていなかったと思いました。幸せなのが当たり前で幸せでないのはおかしいと思っていたように思います。違うのですね。生きることは苦そのものなのです。だから人生をなめるなといえる。油断をするなと。人間はとんでもないことをするし、間違いもする生き物であるというお釈迦様の言葉に救われた思いもします。
 

 堀田善衛さんの「時間」という小説は南京虐殺を知ったきっかけだったのですが、このごろは南京事件はねつ造だと言われ始めているのでもう一度読み直してみようと思ったのでした。
この小説は南京に住む中国人インテリの手記という形で南京の陥落から、出産まじかの妻、五歳の息子、姪を失いながら日本人の情報将校のしもべとなるまでを書いています。国を問わず戦争が人間を丸裸にしてすべてを奪い去る。戦争は人間存在の意味を問題にしています。
 堀田善衛さんは大正七年の生まれで25歳で徴用され、昭和二十年三月中国に派遣されていますから日本の戦争の時代当時を生きた人です。まだ読了していないのですが、この本、油断しないで、人生をなめないでどう生きたら良いのとしきりに問いかけてきます。

 

 

空気


現在はまずまずでした。
 体重測定(体温、体脂肪や体内年齢、筋肉量、血圧などを含む)の記録、一日に食べたもの、歩行数などを記録するのは、食事と同じくらい生活の一旦になっているのですけれども、この記録不完全な時が結構あって、ある時点で記録から生活を反省したり、問題や良かったことなど調べてみたいのですが十分活用されているとはいえません。5、6年前から気になる不調が目立ってきたのではじめたのでした。
 キノコの中でどうしても名前が出てこない、シメジじゃない、エリンギでもないし、、、姿ははっきりしているのにどうしても名前が出てこない[ふらふら]、エノキがどうしても出てこない。毛細血管の消失とか血流の悪さとか?
 一番心配なのがこむら返りでひどいときは全身に起こります。だんだん年齢とともに硬直するようになるのだろうかなどと不安でした。そこで一度脳の画像検査をうけてみることにしました。
「問題ありませんね。といまのところまずまずの結果でした。
後発性白内障で片目がかすんで見えにくく本がなかなか読めなかったのですが、レーザーをかけて取り除く手術をしたので本もよめるようになりました。[わーい(嬉しい顔)]

 こむら返りの原因はいまひとつはっきりしませんが全身的状態と関係するようですね。いろいろの筋肉を使って体の柔らかさを心がける、、、こんなことも大切なのかと思いました。
 
 空気

  心配といえばいろいろありますね。先日高校の時の同窓会がありました。六十年ぶりです。見ただけで分かる人はほとんどいませんでした。卒業記念写真をもってきていた人があって、当時の写真をみると一人一人がまざまざと浮かび上がりました。
 敗戦から戦後復興のどまんなかを私たちは暮らしてきたのでした。当時と今を比べると今が本当に幸せな時代と言えるのだろうかと思うところがあります。認識のしかたは人それぞれなのでいろいろなのですが。私個人は個人の可能性を伸ばしたり、物質的豊かさという点では当時と比較にならないものがあると思っています。しかしこれは大変な格差がある。放っておいては危機を迎えるのではと思うことも多くなっている。そのことをキチンとみるべきだと思います。個人の豊かさの追求はこれからも続くでしょう。そして個人の豊かさの追求が自分に関してだけですまないということにも気づきつつあると思います。
 個人の欲望の追求が世界を調和的に発展させるという二十世紀の楽観的思想がいまも世界を支配しています。わたしはどうやらこのことに疑問を感じているようです。
 人間が壊れてしまったのかと不安にさせられるような現実も枚挙がありません。そういうネガティブな問題について取り組む力があまりない。ブログを書くのが、そこで本音を書くことがしんどいし、ためらいを感じてしまいます。
 絶望している人がいるとしたら、その人にむかって絶望的なことを書く必要があるでしょうか。書くとしたら、嘘でない真実の中に希望を見ていなければ書けません。
本音がどこかに出たがっています。閉じこもっている暗がりの中から本音が光のある所に出て誰かに認知されることをもとめているようです。認知するのは誰か? それは私自身です。自分の本当の気持ちをしっかり知ることから始めなければなりません。

 最近ずっと気になっている言葉がありました。自虐的歴史観とか、ほこりとか、美しい日本とかを強調したい気持ちの裏側になにがあるのでしょう。こういう主張は誇りが持てないとか、傷つけられた自尊心とかということを問題にしているように思われます。それを自分について考えるならわからなくもないのですが、他人の内面に、国民としての自覚として押し付けようとするならこれは何なのだろうと思います。他人の精神世界、内面世界までコントロールしたり、支配する。その越権行為を国の名において行うなら全体主義そのものになってしまうでしょう。問題が多くなり、危機が深くなるとそれが進んでいくようです。
 多くの人にとって、すべての人にとって何が大切で、善いことは何かは民主主義的な討論や行動の中から徐々に作り上げられていくのではないでしょうか。そこを基本にしなければどこかでまた間違うのではないでしょうか。
 自分可愛さだけの自己愛を他人の運命や人生にまで拡大して左右しようとする人に注意しなければならないと思います。

 先日は自民公明の与党といくつかの野党の賛成をえて共謀罪が成立しました。
 なぜこの時期にだれがこのような法律を必要としてつくられたのか、高村薫さんの指摘本当に大切だし考えてみたいと思います。
  





 
 



 

最新の世論調査に

 最新の世論調査内閣支持率が31%に、不支持が50%を超えたとニュースが伝えていました。これに政府は内閣改造で支持が戻ると考えているようです。
安倍政権の支持はこれまでも消極的支持と考えられていました。政権を担当できる受け皿がないから、誰がやっても同じという理由も大きいようです。総選挙結果では野党のぜんたいを合わせた得票はわずかながら上回っていたようです。しかし議席数において自公政権は圧倒的多数となりました。その数の上に強引ともいえる議会運営をかさねてきました。そのうえでこの間政府が進めてきたことは国政の見える化、情報公開に逆行する動きばかりで、秘密主義や隠ぺい、時には文書破棄までするというおよそ後世の検証に耐えることができないような行政を進めています。議会での丁寧な議論を放棄すれば、選挙制度がみなおされなければ民主主義は議会政治の上で無力ではないかとさえ感じさせられる状況です。
 国民の疑念、感情から遊離している結果が内閣支持率にあらわれているのではないでしょうか。

 しかしそれにもかかわらず、世界も社会も先をしっかり見通すことができない岐路に立っていることと安倍政権がこれまでには考えられないような質的に異なる政権運営をしていることは関係しているように思うのです。本当にしっかり主権者である国民が自分たちのこれからのこととして考えなければ、それも自分一個の考えだけでなく、多くの異なる意見と議論しあいながら未来をつくることを考えなければならないのではないでしょうか。私は政治は好きではありません。どちらかというと大嫌いです。政治的な発言をすることも好きではありません。でも黙っていてはいけないのではと感じています。

 

気ぜわしかった一か月

 実際の行動はいたってはかどらない人なのに、気持ちだけは気ぜわしい人間なのだ。やりたいこと、やらなければと思うことは私の場合は一緒なので自己矛盾はないのだけれど、あれもこれも中途半端な状態でこれではいけないと反省しきりです。
 六十年ぶりの同窓会があり、半世紀が過ぎると顔を見ただけで分かる人は片手ほどです。田舎の人は優しいです。地域で頑張っている人達の頑張りに力をもらった感じです。私もこれから本気で終活にとりかかろうと思います。
 途中のブログ記事の更新も気になるのですが、できるときに更新したいと思います。よろしくお願いいたします。

 安倍内閣憲法改正に予定通り突き進む考えのようですね。心配になることがありすぎです。

一即多、多即一.と天上天下唯我独尊の二つの言葉から  民主主義 [雑感]

6月23日、今日は太平洋戦争末期沖縄戦の戦没者慰霊の日です。
 

 一即多多即一という言葉は折に触れなにかにぶつかるごとに考える言葉です。この言葉に出あったのはもう何十年か前のことだったと思います。芥川賞作家の大城立裕さんの本の中だったと思います。書名を忘れてしまったのですが、沖縄の歴史とご自身の苦悩を描かれた本だったと記憶していますが、この本の中に一即多多即一という言葉が出てきました。沖縄の人の苦悩と歴史をはじめて知ったのはこの本でした。一即多多即一という言葉も天上天下唯我独尊も仏教の経典の中に出てくる言葉のようですね。

 一即多多即一の意味は自分の中に社会のみならず全世界の一切が含まれ、果ては大宇宙に連なる、自他合一、自分などというものはないという意味のようですが、世界に含まれ、世界を含むその一である個人は他人と別の唯一の存在。それが天上天下唯我独尊の意味かと思います。
 仏教にいう無の理解は難しいと感じてきましたが、すこし理解できたような気も。
生きていく上でいろいろの悩みや不安をもつ実際の自分を客観的に凝視してみればその存在は一即多多即一の因果の結果でつねに移ろうものであることに気づきます。
独自な自分などというものは存在しない。ということと実際いきている自分という両者であるとわかります。
 実際を生きている個人は釈迦の言葉でいうと、「欲しい欲しい、足りない足りない」という生存本能に突き動かされている存在。 
 自分一個のように思っている個人はこのように全世界宇宙につながっている存在なのですが、実際の自分が意識する認識は世界や宇宙のなかの些細な点のような認識にすぎない。どんなに頑張って努力した人でも個人の認識は限られていて、無明無知なのだと思います。そこに絶対や一なるものはない。民主主義はこの事実から出発していると思います。多様である事実を認めるその前提にたって共存や共生するシステムと思います。

 戦争が終わったのは五歳のときでしたから戦後の教育が始まった最初の年代にあたります。戦後教育を受けた、最初の世代が戦後の民主主義をどううけとめてきたのだろうかと考えます。戦後の民主主義教育が日本人の魂をダメにしたと考える人たちがいるのですがほんとうにそうなのでしょうか。
 戦争や戦争の時代を知ったり勉強したりするようになったのは学校教育の中ではなかったと思います。社会科の中のそれもほんのちょっとしか触れられない近代史ですから何も知らないといっていいのです。ただ当時は敗戦後の混乱を極めた時代でした。そこには食料を求めてぎゅうぎゅう詰めの列車で農村に買い出しに来る人達がたくさんいましたし、上野駅には何年も浮浪者がたくさんいました。親を亡くし住むところを無くした子どももたくさんいました。自分の身辺だけでなく映画や書物などを通して世界全体を覆った大戦の姿を知りました。しかし、戦争について今になって知らなかったことを知ることはたくさんありますし今になってからのほうが戦争についてよくわかるように思います。当時を知り学ぶことはこれからの時代が平和であるために大切なことと思っています。

 今日の朝日新聞朝刊に孤児として過ごした苦しい時代を見つめなおし、語り始めた「沖縄の孤児、語り継ぐ」という記事がのっていました。その記事の一部から。

 72年前の沖縄戦では一千人以上の孤児を生んだといわれています。
 孤児の一人、嘉陽宗伸さんは当時7歳、一緒に逃げた祖父と母は目の前で砲弾に倒れた。「バーンと音がして、母が覆いかぶさってきた。お腹の中が出て、、、二人即死だった。4~5日が過ぎたころ、米兵に見つかり、トラックに乗せられ、50人ほどの子どもが詰め込まれていたゴザ孤児園と呼ばれていた民家で嘉陽さんの戦後が始まった。2~3歳の子ども15人ほどをつれてこの孤児園で働いたことのある本村つるさん(92歳)の話「ミルクを飲ませるんだけれども、下痢してね。服もおしめもない。雑魚寝の子供たちは朝起きると体中、便まみれだった」
 沖縄の過酷を極めた戦争の姿がありありとうかがえます。
 
 時代は目まぐるしく新しく移り変わるのですが人間の基本はかわらないのではないでしょうか。
 戦争へと進んだ当時と現代人がどれほどちがっているのでしょうか。違っていると信じたいのですが。    
                   (続く)                
 

討論の前提

 ベランダに出ると雲一つない青空が広がっていました。梅雨のころといっても、晴れるとこんなにさわやかなのですね。幾分緩やかな風も通り過ぎてそれだけで幸せな気分になります。洗濯物を干し終わるころには薄い綿のような雲が二つみっつ。朝の仕事を一区切りしたところで、いつもと違う散歩コースに。今日はパパ(私の夫です。いまだに子供中心目線なのですが、人によっては旦那さんのことを宿六と言ったり、亭主と読んだり、名前だったり、あなただったり呼び方どうもぴったりくるものがないので困ります)が外出なので昼食の用意をしないでいいのです。時間たっぷり開放された気分です。

 お母さん、私は親として見落としていたと思うことがある、そのためにある時期の子どもにすまなかったと思っているといいましたね。
 それは絶対的な孤独という問題です。
 今子どもの自殺とか、いじめとか虐待とか、貧困とかがとても多いのです。子どもは年齢が低いほど、自分を表現したり、気持ちをまとめたりすることはできませんよね。最近はかなり幼児期、三歳くらいまでの周囲との関わりが重要だと認識されるようになってきましたが、時代が変わっても低年齢の子どもの孤立化、孤独は解決されているというより、ときにはひどくなっているとさえ思えるのです。これは何を意味しているのでしょうね。
 

 お母さん、人が安心して社会に生きていけるためには人と人の関係が大切ですよね。たぶん昔は個人と個人というより、社会がわくを用意していたのではないでしょうか。個人から見ると個人にとっての社会ではなく、社会から見た個人なのです。戦争まえは国民は天皇の赤子といわれ、天皇の言うこと、考えが絶対でそれに従って生活するものでしたね。その枠に従って生きればいいのですからある意味考えないで済むことです。でも絶対的天皇制はときの権力者が国民を統治するために利用し作り出したものですね。個人に何の発言権も時には拒否する権利も生存権さえ認めない社会は社会的問題の解決が難しくなると強権的に暴走しました。問題解決の力は持たなかったのです。もし日本が降伏しないで、あのまま本土決戦を覚悟し最後の一人まで戦うということになっていたら、今の時代を生きた人達はいなかったのですよね。

 人間は愚かですね。そう思ってしまうのですが。今も世界では最後の一人まで残されないような戦闘が続いています。課題はあまりにも大きいですね。ひとりひとりになにができるのでしょう。
でもね、お母さん私はアリにはアリの生き方しかできないように私には自分にできることしかできないと思っています。
 
 大切に思い、関心を寄せる。大切だとずっと思い続け関心を寄せ続ける。黙って聞く。ただひたすら黙って聞いているだけで相手が見えてくる。そこから本当の交流や対話がうまれるかもしれません。

 今日は土曜日で、祭りの日です。祭りには最高の日よりになりましたよ。たくさんの人がいます。出店もあります。木立の多い高台は祭りの喧騒からちょっと離れて人も少ないです。梢を渡る風に揺れる木々の緑がきれいです。