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右傾化を考える。戦前の全体主義につながった二つのユートピア思想

 北朝鮮とシリアを巡る問題、緊張の度をましています。個人は成り行きを見守っているいがいなにもできません。
 自分としては自分の考えをしっかり持って自分の考えのように生活するしかないと思っています。
 かって、人間が様々な努力を重ねていけば必ず社会は住むやすい方向にすすんでいくと思っていたのですが人間は自己選択にたえられる存在だろうかという、柴田翔氏の言葉を思い出します。

 今緊張を増している北朝鮮を巡る問題ですが、そもそも北朝鮮という東アジアの小さな国になぜ世界一の大国アメリカが艦隊を出動させ、先制攻撃を仕掛けなければならないのか。北朝鮮が手ごわい、話し合いができない鬼っ子になって、体制の崩壊を狙って攻撃を仕掛けてくるなら、核兵器の反撃を辞さないと危機をふりまいているのか、万が一軍事的衝突が始まれば想像をこえる取返しのできない事態になることは必至なのに力の行使も選択肢であると緊張状態が続いています。韓国、日本が一番手ひどい被害をうけるのに日本政府はアメリカの動きと一体です。被害を受ける当事者でないかのような主体性のなさ、不思議ですし問題ではないでしょうか。

 その安倍政権ですが日本の政治の右傾化が言われています。憲法改正をはじめ、秘密保護法や共謀罪などそこにどんな意味、意図、動きがあるのか、しっかり考えてみなければならないと思います。


素朴に子供を育てるときにぶつかる問題の背後に時代があります。 その時代、社会の影響を抜きに子育てもないのですが、戦後から七十年という時の流れを丁寧に振り返って考えてみることもとても大事だと思っています。

  以前ブログで書いたことがあるのですが、郷静子さんのレクレイムという小説はおそらく現実にあったことにちかく書かれたものと思います。詳細を忘れてしまっているのですがこの小説はごく普通に暮らす庶民にとっての戦争と周囲の人々の運命をえがいていて当時のことがよくわかる小説の一つだと思います。主人公は国や家族思いの女学生で、勤労動員では丈夫でない体の無理を重ねても率先して働く優等生の女性です。いわば軍国少女です。学校ではっきり周囲とはちがっても自分の考えをもって行動する年下の女学生と知り合いになり、何かと相談相手になったりして次第に親友となっていきます。この年下の友人の父親は大学教授なのですが、逮捕されます。友人の家族を襲った不幸を通して主人公は自分が熱心に信じてきた国との板挟みに苦しんでいきます。主人公の周りの青年たちも次々戦場で命を落として行きました。人も物もすべてうしなった彼女は真実を見る感性、目がなかったことを後悔します。


  今「愛国心と信仰の構造」を読んで、戦前の全体主義につながった二つのユートピア思想に出会いました。
この二つの流れ、ユートピア思想は現在の右傾化ととてもつながりが強い面があると思うので「愛国と信仰の構造」をテキストによく考えてみたいと思いました。

  その一つめは
 「すべてのことが神のみ仕業として起こっている、それに対して人間の賢しらというものがある.。この賢しらこそが漢意であり、大和心はすべて神のみ仕業であり、いわばありのまま神に髄順することをよしとする大和心こそがこの国の国体を支えている」
という国家神道、国体論が、親鸞思想の「計らいを超えた弥陀の本願」という他力思想と親和性を持ち、弥陀の本願が天皇の大御心とすりかわっていくという流れになった浄土真宗の他力思想と全体主義への流れです。

 もうひとつが
 日蓮主義と国家ナショナリズムとの関係です。こちらはもともとももっている日蓮主義の改革の志が国体論や国家主義に合体することによって、世界を一つにするという拡張主義になっていったことです。

 次回このことについてもっと詳しく考えてみたいとおもいます。




 

今、どんな風が吹いているでしょう。

 国を守るには血を流す覚悟が、私たちの生活だけが大事なんじゃなくて先人がいきついてきた世界中の日本だけが道義国家を目指す責任がある、資格がある。

これは日本の大義を「酒田法廷」で堂々主張した石原莞爾の言葉です。

いま、どんな風が吹いているのでしょう。いや、どんな風を吹かせたいと思っているのでしょうか。

 昨日の新聞にミサイル発射を繰り返す北朝鮮を念頭に、自民党の安全保障調査会が敵のミサイル基地をたたく「敵基地攻撃能力」の保有に向けた検討を直ちに開始するよう求める提言を安倍晋三首相に提出したというニュースが出ています。

今一生懸命読んでいる本があります。熱中しているので他は少しお休みです。「愛国と信仰の構造」です。ほかに同時進行で読んでいる小説があるのですが、どちらも読み終わったときどんな感想になっているのか楽しみです。

 人の受け止め方は様々だと思うので、あくまで私自身の感じですが、日本はとてもいい国で住みやすい国、勤勉で人に優しく、礼儀正しい国だと思います。でもその一方で時に息苦しく、これが自分が望んできた社会や生き方なのだろうかと思うことも多く、悩むこともおおくなっています。自分はどこに着地するのだろうか。残る時間が少なくなった今考えます。
 
 戦前、戦中をいきて戦後廃墟になってしまった日本のなかで、坂口安吾が語った言葉が日記のなかでみつかりました。古代文明が全滅しても、生活は滅びず、生活自体が滅びない限り、我々の独自性は健康なのである。絶対のものがあり得ないという立場から、中途半端を廃し、なきにしかざるの清潔を選んだ。
 無きにしかざるの清潔、釈迦が説いた教えと通じるところがあるように思うのですが。
 プライドってとても厄介なしろものだと思います。自己愛のひとつであるプライドなんて振り回すとろくなことがないように思います。でも自分は存在していることも否めない、自己愛のない人などないのですからこの自己愛(エゴ)の在り方こそ問題なのかもしれないと思います。

簡単に迷いだす [雑感]

 もともと記憶力がいいわけではないのですが、年にともに明らかに記憶がなくなることが多くなっています。前回書いたブログの中の書名、「日本は大戦にまきこまれる」は不確かなのでメモがあるかさがしていたのですが、正確な書名がわかりました。「日本に恐ろしい大きな戦争が迫りくる」副島隆彦著 講談社 2015です。出版アメリカ大統領選がまだ終わらない前に書かれていますが、現在の状況を見ると一段と世界の動きは不安定さを増しているようにみえます。北朝鮮を巡る動きは危なっかしいです。どちらかが先に武力を用いなければ戦争にはならないはずですが、相手を倒す理由を見つけると武力を使ってもやっつけなければならない、世界がこういうことの繰り返しをしているのはわたしにはやりきれなく思われます。

 稲田朋美防衛庁長官は「戦争は霊魂の進化に必要な宗教的行事、それが私の生き方の根本」「靖国神社というのは不戦の誓いをするところではなくて、祖国に何かあれば後に続きます」と誓うところでないといけないということをいっているそうですが、これは伝聞なので正確かどうかわかりませんが、最初戦争は霊魂の進化に必要な宗教的行事というに至ってはええーっと理解できませんでした。祖国防衛とか戦争とかが稲田さんにとって大変重要なものなのでしょう。
 元に戻って先の本を読んだとき、日本の安全が脅かされると浮足立って右往左往するのではなく、冷静に足元から平和について、暮らしについて考えたいと思いました。

 昨年後半のノートをくっていたら、今も頭のなかをくるくる旋回している疑問に対する答えのようなものにぶつかりました。
親ってとか、家族とか、親としてずっと考えました。自分が考える善悪とか、何が本当で何が嘘なのか、とかをはっきりつかみたいという欲求はあるのですが、その反面でそれは無理だよとか無駄だよとかいう声もどこかでするのも事実なのです。えー、どっちよと思うのです。それに対する答えかなと思う、読んだ本のなかのメモに出会いました。

 完成に持っていく可能性、苦しみ自体は決して無意味なものではなく、苦しみに打ち克つ過程のなかに人生における喜びを見出すことができる。
 年を取るということは個人的な経験を累積すること、永遠の生命というものは、人が年老いていくという過程のなかにつきとめることができる。
 これどんな本からのメモかはっきりしません。

 「知能とは、答えのある問にたいして速く正しく答える能力、知性とは答えのない問いに対して問い続ける能力」これは朝日新聞リーダーたちの本棚に乗っている千葉大学長徳久剛史氏の言葉
 
 親ってとか、家族とか、理想とか希望とか、善悪とか考えることは生涯を通して無意味ではないのです。気ついたところでどうすることもできないのだから、気つくこともしたくないというのは間違いだと思いました。しかし努力は完成形ではなく、不確かなものなのだと思います。

 誰も努力することに意味がなくはないのだと得心できたように思いました。




 



時流 [雑感]

 かっこいい父親というのは難しい時代になったのかなと思います。昔はよく背中をみせるといわれた。しかし今は父親も変化を求められているように思います。家族が力を合わせたり支えあって助けられるようなコミュニケーション力も求められているのかもしれない。男性にも女性にも父親的役割と母性の役割の両方が必要なのだと思います。
問題は父性の役割が今とても難しい時代なのではないかということ。

 今、大阪豊中市にある森友学園の国有地格安払下げ(大阪だけでなく他にも同じようなケースがあるようです)を巡って国会も巻き込む大きな問題になっていますが時流ということを強く考えさせられました。
なぜ森友学園の建設が特別な扱いを受けたでしょう。わたしはこういう小学校、ひいては中学さらに上級学校の建設を日本に必要と考える人達の力、政治家抜きには考えられないと思います。安倍首相も首相夫人もこの幼稚園教育を素晴らしいとほめたたえています。幼稚園で教育勅語を素読させたり、「日本を悪者として扱っている中国韓国が心を改め、歴史でうそを教えないようにおねがいします」「安保法制国会通過良かったです」などと運動会の選手宣誓で発言させているなどこれが幼稚園児が本当に考えることなのでしょうか。 
 おりしも自民党は首相を三期続投してもよいという党則を決めたそうです。
 時の流れ、動きが世界中なぜか怪しく思われます。「日本に恐ろしい大きな戦争が迫りくる」(副島隆彦著、講談社、2015年出版)という本を昨年読んだことがありました。そのときは書かれている内容をあまり信じたくありませんでした。しかし、ニユースに接しながら日ごろ感じていること、世界の動き、何が起こっているのか、どんな力が働いているのかを理解するのにとても参考になりました。でもこんなときほど、冷静な思考が必要だと思います。


 父性と母性は現実の父親母親ではなく、広辞苑では父性を父として持つ性質と書いていたりしますが良しあしとか規範とか物事を分ける働きであり、母性は逆にすべてを同じものとして保護する働きで、人の社会には父性と母性の両方が同時に必要なのだと思います。それは一人ひとりがみな違い、国や集団も、状況もすべてが同じではなく異なるがゆえに、良し悪しなどを区別することと受容し保護することはどの生命にとっても必要なことです。
 日本は長いこと母性的性格の強い社会といわれてきましたが、今はどうでしょうか。超父性社会になっているのではないでしょうか。
その超父性社会を維持するための精神的機構が戦前の超国家主義教育の復活なのだと思います。教育の問題は簡単ではないので別の機会にゆずりたいと思います。

 
 


人はなぜ危うい道をえらぶのだろう。 [雑感]

知性の劣化とも思えることがなぜ進むのでしよう。

 家の中に理解者がひとりもいなかった
 親はなにもしてくれなかった
 孤独で押しつぶされそうだった
 友人、知人がほしかった
 すべてが文句にしか聞こえなかった
 自立したくても自立の方法を知らなかった

この叫びは引きこもっていた子供たちが当時を振り返った時の言葉だそうです。今もこうした心の叫びを抱えている子供や大人がいるのではないかと思います。こんな悲痛な叫びを考えるととてもたまらないし、こうした叫びを知らなかったり、無視したり、本人の問題としたりしてしまうとしたらなんと薄弱な世界でしょうか。今ある本を読んでいるところです。出版大賞を取っているそうですから多くの人に読まれているのでしょう。まだ途中で最後まで読んでいないうえに内容をしっかり吟味しているわけではないのではっきりした感想とは言えないので,書名も書きません。しかしとても疑問をたくさん感じました。

結論が不愉快なためではありません。どんなに不愉快な結論であってもそれが事実や真実ならそれは仕方のないことだと思います。しかしそれが真実であると結論するには慎重な、さらに謙虚な検討態度が必要だと思います。

 社会の進歩においつかない知性の劣化ともいえることがなぜ進むのでしょうか。一つはアイデンティテイをどう考えるかと関係するのかもしれませんが、釈迦が生きていた時代と現代ではとてつもない変化です、ただ人間が人間でなく別の生き物になったわけではなく人間という生き物である本質には変わりはなく、人間社会を変化発展させてきたのはその人間です。その人には二つの側面があります。人という個体、生き物である本質と社会の中にある、社会に帰属しているという二つの側面です。そのバランス、個人にとって良いバランスであるかどうかの問題が知性ではないでしょうか。しかし社会の変化発展は個人という人間を超えて発展するので個人が壊れていく。もっと生き物としての自然性が回復されなければならないのではないかと思うのですがどうでしょうか。


いるとあるの違い [雑感]

 何に書いてあったのか、はっきりしなくなっているのですがいるとあるは違うと書かれているのを読んで、居ると在るの違いについて時々考えていました。そして最近報道などを身ながら感じたことです。
例えば公園に何人かの子供がいたとしましょう。三人とかあるいは五人とか数えることができます。しかし三人なり五人なりそこにいる人数は分かっても一人ひとりが居る、存在しているその中身の在りようまでは分かりません。
意識し可視化できる場合のことは「ある」で、存在しているらしいけれども意識したり認識にまでたどり着かないものを「いる」と考えることもできるのでしょうか。目で確認できる、あるいは表面的に見えるものは誰にも分るのだけれども、表側から見えるものだけではない見えないものがこの世界には多く、この社会を作り上げているものなのでしょう。

 さきごろ、原発事故の被害によって福島を離れなければならなかった小学生が移住先の同級生の何人かから賠償金があるだろうとお金を出させられていたという事件がありました。この事件について横浜市の教育長がお金は生徒が自分で納得して提供していたのだからいじめではないというコメントを出したということが報道されていました。この教育長は表面だけをみていると思いました。このように表れている表だけ、その一部分で物事を判断することが教育の重要な仕事をしている人にあるのはとても驚きでした。いや社会のいろいろなところにこうした目に見えるものしか見ない傾向は広がっているのかもしれません。
 これは何を意味しているのでしょうか。

 トランプアメリカ大統領の就任から、人類終末までの時計の残り時間が3分から2分30秒にかきかえられました。トランプ大統領が核兵器の使用も辞さないという姿勢を示したこと、地球温暖化を抑える政策に同意しないと表明したことなどによって、終末までの時間が短くなったと考えられたようです。
 1987年、米ソ冷戦下で核兵器が使用されてはならないと恐れた当時の世界の指導者によって中距離核戦力全廃条約が調印されましたが、その時のソ連共産党書記長だったゴルバチョフ氏が、今年になって「政治の軍事化、新たな軍拡競争」に警鐘をならしています。
 
 危機はなぜ生みだされるのか、どうしたらこうした危険な状況を変えることができるのでしょう。誰もが一番苦慮しているのだと思います。軍事予算を増やし、力による抑え込み、危険の防止策も過激派ISのテロ、欧州の難民問題、格差の拡大と貧困などの解決に無力なことを示しています。しかしその政策が唯一有効な方法だと信じたいと思う人は少なくないのかもしれません。

 もともとなぜ危機は生まれるのでしょう。人と人がなぜ危険なのか、それをはっきり知ることから始めれば問題の解決は近くなるのかもしれないと思います。
誰も命を持つものは生命本能ともいうべき生存本能があり、自分の命を大切に思い、自分がかわいい、だからこの世界に生きる場所がなく否定や排除されることはその命にとっての危機です。自分の命がかわいいように他人も自分の命がかわいいのです。だから自分を愛するように他人も愛せば、自分の事情、相手にも事情があること、一緒に解決しようとするなら危険な関係ではなくなるはずです。といっても様々な条件、過去に規定されている人間は簡単ではないのですね。一人、二人と頭数は数えられてもその人の中身、こころまでは分からない、まして本人でも意識しない無意識の世界や実存の状況には届かない。
 でも終末までの時間の針をもどすためには危機がどこから生まれるのか、なぜ生まれるのかについてもっと真剣に考えてみなければならないのだと思います。

対話について

 
  対話とは何だろうかと考えてみると他人と自分との対話というより自分と自分との対話、自分の中のもう一人の自分との対話のほうが大きいと感じます。もう一人の自分が自分をいつも見つめているというのか、小さい頃からそのためにかなり自意識過剰だったような気がします。
子供が生まれたとき、はじめて親として自分とは別の存在としての子供と親としての自分のかかわりのようなことをずいぶん考えさせられました。自分ひとりと直接社会だったものが、もう一つ、親子とか家族ということが加わったというような。今はまた孫が生まれたことで、親と子、親と子と孫と社会とか世界とかになって、私自身はいつ消えてもいいようなものなのですが、孫を通して考えることも多くなって、政治にかかわる発言はあまり好きではないのですが、黙っていてはいけない気持ちにさせられてしまいます。

 泥がなければ花は咲かないという本を今読んでいます。著者は曹洞宗の「大教師」の尼僧です。苦しみや悲しみという泥、それが原因となって、その苦に導かれてアンテナが立ち、よき師、よき教えという縁に出会うことで、泥は肥料と転じ、美しい花という果を咲かせる。「苦しみがわたしを救う」は、泥はアンテナを立てよという仏様の慈悲の贈り物だと。そうかもしれないと思いました。アンテナをたて始めたところかなと思います。
 自分との対話は自分と他人についての関心、物事への関心、その他あらゆるこの世に存在するものへの関心、対話なのだと思います。自分の場合は家族とか、暴力とか世界の平和とかに関心があり、自分自身との対話もですが、読書は他人との対話の一番のツールです。新聞の新刊案内を見ていたら、「戦争、暴力の反対語は平和ではなく対話です」という本の新刊案内がのっていました。時期を得た本だと思いました。そのうち読んでみたいと思っているのですが、読みたい本がたまる一方です。

価値観

最近えーっと驚きつつ、ああそうかと半ば納得したことです。
先日「さきどり」というNHKの番組を見ていて若い人を引き付ける「かっこいい」という価値観とアップリサイクルという言葉を聞いて、自分などが考えている「よいこと」とという価値観の違いを考えてみました。かっこいいは良い悪いという判断と無関係ではないけれどより感覚的身体的な快楽、楽のようなものが含まれているようですね。
もったいないからさらにアップリサイクルという感覚、多様化と縦にも横にも歴史や人が行きかう文化、単なる動物的な快楽だけでない自然と人と人の共生を考える、新しい価値観を模索する人達が育っているのだなと。人間に戦争など必要でしょうか。

現実と主観を考える [雑感]

 昨日はいくつか所用があって駅まで。朝体操と日中の健康教室と合わせて一万歩を軽く超えましたが、急に運動しすぎもどうかなと感じるところもあります。この日増加の一途をたどっていた体重が40キロ代に、二キロくらい減量していることは喜ぶべきことなのでしょうか。

 本やさんで3冊文庫本を買ってしまいました。買わないようにしているのですが。日本会議に関した本と「漱石の思い出」いまテレビドラマで放映中です。読まなくちゃとか読みたいとかいう本がどんどんたまってしまって追いつきません。家の中も少しずつかたずけてはいるもののちっとも進んでいる感がありません。あと一月もしたらすっきりしていたいのですが!
 
 現実と主観の間にはつねに大きなギャップがあると思います。現実を人間の営みをふくむ宇宙のあるままの推移、因となり果となる真理と考えると、人間の主観(自分)は自分勝手な認識や思い込みですから、自分の願いや思うところと現実とのずれや遊離が付きまといます。そして主観は常に物事の真理にうち負かされます。そのたびに自分勝手な主観によらず、自然の理、真理に自分を添わせる以外にないことを思い知らされます。
 
 安倍首相の所信表明演説がありました。その内容をニュースでちょっと聞いただけでよく確かめていないのですが、聞いてもあまり心にしみないから、じっくり聞く気持ちになれないです。
 気になったのは、民主党の蓮舫さんのアベノミクスの検証が必要ではないかという質問に安倍総理が民主党時代の悪口で答えていたことでした。それでは議論にはなりません。

 総務省の8月の家計調査によると一世帯当たりの消費支出は物価変動を除いた実質で前年同月比で4.6%の減少、12月連続のマイナスだそうですが、それは消費できる所得の減少をあらわしているのではないでしょうか。
 
 安倍総理がアベノミクスの成果として雇用の改善をあげていますが、その内容を見ると非正規、不安定雇用の増大で、雇用や働き方がよくなっている実感はありません。先日のNHKで取り上げていた人口減少と消える自治体の不安では、豊島区の場合、区内に流入する人口の大半が20代から30代の若者、年収200万円くらいで将来家庭を持つことが難しいといわれます。そうなると
区が成り立たなくなる心配に直面しています。それは豊島区だけの問題ではなく東京全体、地方自治体でも同じ問題をかかえているということでした。 
 
 
 こうした数字をあげるまでもなく、すべての人とは言わないまでも、国民の少なくない人がアベノミクスは本当にうまくいっているのか、確かに将来に国民に安心をもたらすことができる政策なのかを心配しているのではないでしょうか。

 経済にとどまらず、本当の安心や豊かさはなにかを考えなければならない時期ではないかと思うのですが、そういう時、国の運命を左右する重い立場の総理には、一層の謙虚さが必要だろうと思います。自信に満ちた信念(思い込み)や情念だけに頼るのは危険です。現実と主観ということを考えさせられました。主観は現実の前で打ち負かされることが多いのですから。

今朝の天声人語から思うこと [雑感]

 河上肇さんが朝日新聞に貧乏物語を連載初めてちょうど100年になるそうです。私は貧乏物語を読んでいませんが、天声人語で次のようなことが書かれていました。

 「毎日規則正しく働いているのに、ただ賃金が少ないために生活に必要なものが手に入らない。きわめてわずかな人々の手に巨万の富が集中されつつある。」

 国家有用の材となりうる若者が、貧乏な家庭に生まれたがゆえに十分な教育を受けられないことを河上は嘆いた。学問は決して「過分なぜいたく」ではないのだと。河上は資産家や実業家に人を思いやる倫理を求めた。
 そして天声人語は現代の教育格差に重なる話ではないか、世の中が100年前に似てきたとすれば、あまりに悲しいと。
 

 子供の貧困、親から子への「貧困の世襲化」は始まっています。そして広まってもいます。私は一億総中流と言われる時代に働いていました。あなたは中流ですかという意識調査がありました。大多数の人がはいといい、人々の意識はマイホームへと移っていったように思います。私はそのときなぜか危うい気がしました。失われた10年という言葉を耳にするようになってから30年、先日、友人がこの30年であまり変わったと思えないのだけれどと話し始めたので、私はとても変わった、すごい変わりようだと思うといいました。友人は30年前は多分10代ではないかと思いますので、おそらく物を考える頃はその中にいたのだと思います。
 この30年の科学技術、機械文明の発達はとどまるところがないものだと思います。でもと私は思ってしまいます。なぜか悲しみが積みあがってしまうのです。文明は人間を幸福にしているのだろうかと。もちろん両面があります。富の一極集中、紛争と戦争と対立、分断と憎しみの連鎖、地球環境、自然の破壊の進行だったように思えてしまうのです。共生、和解、平和への努力は続けられながらも。
 
 すべての人にとって、人間の可能性を奪うものを広い視点で考えたいと思います。