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現代社会の中の親子、家族について [生きるを考える]

 先日gonntanさんのブログで自民党文部科学部会で法案が了承されたので家庭教育支援法が国会に上程されるのではないかという記事を読みました。関心の深い問題だったので、この法案についてネットで調べてみました。

 
 今調べた範囲でこの法案の経緯について記すと。


 教育について最も基本になる教育基本法が平成18年12月15日第165臨時国会で成立、改正された現教育基本法では第十条に「家庭教育」を盛り込んでいます。
ここで家庭教育の役割の重要性をうたい、国と地方自治体が家庭教育を支援していく必要性を強調しています。
 国会の審議に上程されようとしている家庭教育支援法案は教育基本法の精神にのっとり、、、国及び地方自治体は家庭教育を支援するために必要な施策を講じるよう努めなければならないという条文に沿って法案作りが進められているもののようです。
 法案作りは自民党と文部省内部の両方で行われてきたようですが、自民党の法案作りとその経緯をみるとこの法案の意図がはっきり見えてきそうです。

  法案作成のこれまでの経緯もふくめて、広田照幸氏「昔の家族は良かったなんて大ウソ,自民党保守の無知と妄想」に詳しくまとめられていて参考にもなり、共感もしました。参考に読まれることおすすめです。それでこのあと私が感じていることを中心に書きたいと思います。

今回の衆議院選挙での自民党は
 小選挙区 得票率48%、議席数75% 218
 比例区  得票率33% 議席数     66
 全有権者にしめる自民の得票率は小選挙区で25%、比例区17%
 投票率53.68%で、一番国民の支持率が現れると思われる比例区選挙ではわずかに17%ですが、選挙後の国会の議員数では6割強です。
 この数字を見れば国民の意思が正確にはを議席数を反映していないことがわかりますが、自民党の勝利感は政権運営にも影響を与えるでしょう。
 こうした選挙結果を受けて私はとても心配なことがあります。

 先日から「貧困のなかでおとなになる」という本を読んでいたのですが、関連するいくつかの数 字をあげようと思います。
 
 6人に一人が貧困家庭で育つ
一週間に一人が虐待で命を奪われる
 5日に一つの学級がなくなる人数の高校中退者(一学年6クラス40人学級と想定して計算)

 この数字、文部省の統計でも確認しましたが、驚きました。胸が痛くなるような数字です。
 これら以外にも暴力事件、喫煙や飲酒、いじめ、自殺、非行など子どもたちが育つ環境が厳しいことをしめしています。親、学校、社会はすべての子供たちに成長を助け、次の時代を担うことのできる成熟した市民を育てる役割があると思います。
 しかし、貧困の問題一つをとっても、単にお金がないから欲しいものや必要なものが手に入らな
い不便さではなく、お金がないことから始まる孤立、あらゆる情報から疎外され学業不振、学力 の遅れを立てなおせない環境、夢を持たないという自己防衛、学力や意欲だけでない健康格差ま でが育つこと、生きることを奪っている現実をあきらかにしています。
[貧困の中で大人になる」の著者は「私も始めは子どもの貧困が見えていなかった、社会は見えていないのか、あるいは見て見ぬふりをしている。問題の背景を考えることを意図的にか無意識にかやめてしまっている人が多い」といっています。

 これらの問題の原因を安倍首相、安倍政権をささえる勢力は一貫して戦後の民主主義、民主主義
教育に求めてきました。 安倍総理の教育改革は戦前の教育に戻すことをめざしています。
 総理の「新しい国へ美しい国へ」はどのようなものでしょうか。自民党の親学推進議員連盟と文部省とで成案をえたといわれる家庭教育支援推進法の内容はまだわからないのですが、安倍総理のこれまでの一貫した考えは短絡的で考えることをさけているとしか思えません。

 
  人権の考え方は時代とともに進んできた考えだろうと思います。また経済や文明の著しい発展 もありました。一昔前とは異次元の変化です。これからも変化し続けるのかもしれません。しか し経済発展も科学技術、物質文明の発展もひずみとともに限界に近付きつつある、そういう問題 に世界が直面しているのだろうと思います。
 日本社会を席捲してきたグローバリズムのなかで、低福祉、低負担、自己責任(小さな政府)で 市場への介入を避け放任する「新自由主義」政策がとられ(厳しい世界的な経済競争下でやむを 得ない側面はあったのだろうと思いますが)弱肉強食と自己責任が急速に社会に広がりました。 個人の自由権利は弱肉強食と自己責任になり困難を抱えている人を攻めてしまう、攻撃や排除に つながる冷たい社会へ、困っていること、困っている人の力になる共助を失っています。当然あ るべきセイフティネットも壊れてしまっています。

  主体的な個人の育成と個人の尊重と共生の社会の上に築かれる発展を目指そうとして出発した戦後が国家の統治の下での家族や教育を考えるべきという考え方へ回帰しようとしているように思います。
 国家統治への回帰は(日本会議や親学議員連盟など国家主義的保守勢力)主体とか自由、公共についての認識の問題がちがうように思われてなりません。それは統治する立場からの発想で同時にときには権力の維持や自己利益、保身につながる危険もある発想ではないでしょうか。
国家権力はときに残酷です。問題の本質を隠します。人は誰でも現状維持や安心をもとめ保守的になるといわれます。安心したいし、不都合なものは見たくないのです。が現実を見ないと危険も見えないことがあるでしょう。

 心の闇ともいわれるようなニュースをどう考えたらよいのか、武力や軍事力、力の強弱に頼る世界をよくする答えがあるのかはっきりとした答えはわかりません。真実や勇気ややさしさを求めてさまよう人が小さな勇気ややさしさに出会えたらいいなと思います。

家庭教育支援法の中身がどのようなものか私はまだ知らないのでこれからの推移を見ていきたいと思います。
 
 

 

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人がいう、超非現実的理想主主義と現実主義 おもうこと

 安倍総理が臨時国会での冒頭解散を表明しました。なんでも「国難突破解散」なのだとか。
超気分が落ち込みます。なぜ今解散しなければならないのか理由がない総選挙でどれだけの税金が使われるというのでしょうか。
 国難を作っているのはあなたではないですかと言いたい。
今度の突然の解散には政権が考える隠された理由があると思います。一つは第二次安倍内閣の成立いらいの安倍政権の政策への疑問、特に国政の私物化や国会軽視や憲法破壊などへの疑問、不信をかわさなければならない状況ともうひとつはアメリカと緊密な連携の上で、日本がアメリカの同盟国として戦争に参加できる(憲法改正にもっていくことを目指したものと私は思います。二番目の理由のほうが解散をきめた理由かもしれない。北朝鮮との緊張と野党の力不足という今をおいて一挙に進める好機はないと日米の考えが一致したのではないでしょうか。
 日本がそうなってほしいアメリカの理由はどこにあるのか。日本がこれからアジアや世界とどういう付き合いをしていったらよいのかという課題とともにしっかりみていきたいところですね。
正月明けあたりが、、、と言われている北朝鮮問題情勢も日米の考えの上で決められていると思います。
 国民は黙ってみているしかできないということは悲しいことですが遠回りでも時間がかかる、国民がしっかり見て判断する力をもつしかないのかもと思います。
 希望が日本中にいきわたる、希望の党、美しい日本なんと感覚的は標語があふれているのかと思います。情感に流されるだけにとどまる国民性の自分の感性の中にもっと物事の必然的理を見ようとする努力が必要なのではと思います。

 とても個人的な意見なのですがよく戦争放棄は理想主義にすぎないといわれますが、それでは戦争は認められるのですかと。どこの国と組もうが戦争は絶対にしてはいけないということをはっきり目標に掲げるべきと私は思っています。
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自我のゆくえ 続き [生きるを考える]

 自分を問うということは自分と周囲あるいは社会とのかかわりを問うことでもある。自分に始まって自分だけで完結することではない.。
それでは自分も見えないし自分が何者かもはっきりしない。
 最近よく耳にする言葉。セルフネグレクトという言葉です。自分にさえ関心を持たなくなることが進むことのようです。
 状況が自分の力を超えて、それに見合う意欲がなくなったり無力感が強くなるのでしょうか。これは人間破壊ではないかと思います。人間破壊ではないかと思うようなことが政治の世界でも社会の事件や家族などでもたくさんある。としたら、社会がもっと個人に合わせて添う社会であることを望みたいが、そうはならないでどんどん「人」を置き去りにして進むようです。
 個人を取り巻く世界が個人と関係なくあるとするなら、それでは逆に個人が自己の世界の選択を明確にし、自分と社会との関係を選択していく以外にないのではと思います。
 「サイの角のように一人歩め」という言葉の意味をネットで検索していたところ、アリイトの作業机というブログでこんな言葉が目にとまりました。

 ---資本主義によって半ば強制的に「独り」で歩む世界が作られつつあるのではないか。それに対置させた考え方が必要。はるか2500年前にブッダが用意しておいたなんて考えてみるのも面白いような気がしました。


 世界の大きな仕組みが、目に見えない大きな力で巧妙に作られているのだとしたら?
 
「生まれた以上、生きていかねばならない。」
 たとえ苦しい状況であってもなぜ生きなければならないのですかという問いにはそれが答えなのだと思います。社会に取り込まれるだけでなく、自分の側から問いなおし、選択することが必要なのだと思います。

 国会の冒頭解散、総選挙が現実味をおびているようです。現政権やその補完勢力から見れば今が絶好のチャンス、じり貧を防ぐチャンスと思うのは理解できます。それを善いと思っているわけではなくとんでもないと思いますが、先伸ばししても政権浮揚につながることはなく、ますます問題は深刻な状況になるのではと思います。なぜなら問題にたいする本当の対策は進んでいないし、議論も深めていませんから当然です。仕事人内閣が聞いて呆れてしまいます。
国民としては真剣な討議を望みたいところですが、もし解散になるとしたら、党利党略だけを考える政権への厳しい審判と真剣に国政を論議できる議員を国会に送る機会にすべきではないでしょうか。






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自我の行方 [生きるを考える]

 以前に一度ふれたことがあるのですが、本の処分をしている中で、「愛するということ、愛されるということ」という本を読みなおしていました。著者はレオ・バスカリア。草柳大蔵訳でアメリカでベストセラーになった本です。サブタイトルに互いに分かち合える”ほんものの人生をさがしにーーーという言葉があります。この本、BOOKOFFに出そうかなどと思っていたのですが、すっかり読み直すことになってしまいました。

 
 マスコミで報道されるような様々な問題、国際問題でも事件でもコミュニケイションがなかったり成立しなかったりだと感じることがすくなくありません。人間は人として基本的に同じだと私は思っているのですが、どうしてこんなに対話が、コミュニケイションが難しいのか、この疑問を考えることができる一冊でした。

 ーーーー 私たちは、人とかかわることがますます下手になってきている。「人付き合いはできるだけ避けなさい。何事にも無関心でいることです。」痛みを味わいたくない人にはぴったりの処方箋だ。
人々の関心が、自立や個人の自由といったことにむけられているのはたしかのようです。ーーー


 著者のこのような指摘、他人への関心が少なくなり、ますます孤独になっている現代人への警鐘でしょう。でもなぜそうなっていくのでしょう。
 現代社会を分析していかなければならないと思います。誰も自ら自分だけを考えて社会との関係を断って孤独でいたいとは思わないと思いますが、一人でいたいと思うくらい、厄介で迷惑な関係であることもあります。
 特に最近の核戦争を巡る対立くらい迷惑な話はありません。誰とも、どこの国とも核戦争はもとより戦争などしたくないし、敵だとも思わないのになぜ戦争しなくちゃならないのか、生活も犠牲にして軍備を強化したり、核兵器まで持たなくちゃならないのかと思います。

 人生において大切なことのひとつをこの本で教えてもらったように思いますが生きることは人とのかかわりがどうかにかかっているようです。一人で生きているのではないから、他人を知ること、自分を知ること、他人を大切にすること、自分を尊重することを常に心にとめていたいと思います。
子どもたちが小学校高学年から中学に進むにつれて親として悩んだり考えたりすることもふえて、一番難しいと思ったことが話し合うことでした。言いたいことが言えない、言うべきだと思うことが言えない。いまでもそういうときがあります。相手の気持ちが見えない、会話が成立しない。人並にいろいろ悩んでいた時出合った本が秋山さと子さんの「母と子の深層」やA·S ニイルの「問題の子」などでした。
 本当の会話が難しいのはなぜなのか。本当の会話を阻むものはなんなのか。自分の本当の気持ちだと思うことを相手に伝えること、相手からも本当の気持ちを聞くことができて実際を確認できることは人と人の関係の一歩なのだと思います。そのためにはあらゆる先入観をもたず、ともかく相手を知ろうとする関心、聞く耳がなくてはならない。
 世界も人生も誤解にみちています。ニイルは子どもとの接し方にあたって、まず先入観を持たないでありのままの子どもを観察してほしいといいました。そして好きや嫌いの愛好の意味の愛ではなく、関心の意味の愛を持つことを基本にしました。
 これは子どもとのことばかりでなく、同じことが人と人、国や民族がちがうような関係においても同じことがいえるのではないでしょうか。
 同じ人、人類としての相手への関心、聞く耳をもって実際を知ること、強固な先入観や自ら自分のなかに敵をつくる自己愛を離れて、本当の相手の心を知ること、そこまで人間の知性が進んでいなければなりません。それとも自分の利益や先入観や憶測という誤解から危険な火遊びをしての結果が出ないとわからないとでもいうのでしようか。人間は何度もその経験と過ちを繰り返してきたのですが。


 自分を考えたとき、「サイの角のように一人歩め」というお釈迦様の言葉について考えます。
振り回されないで生きる。それ以外にないといまは思っています。 
 
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最終的に勝さるものは?

 希望とか信頼をどこに置くことができるのでしょうか。

 ベトナム戦争が激しかったころ、友人が私につかみかからんばかりに「こんな世界で子どもをうむなんてことができるの」と詰め寄りました。きっと彼女は殺し合いなんてする世界に絶望しいたたまれず、そんな希望のない世界に子どもが生まれたらかわいそうだと、それなのにのんびりしているように見える私が許せなかったのでしょう。私だって彼女とそれほど違っていたわけではなかったのに、そう私に怒りをぶつける彼女に、責めた私に何ができるのと思ったりしました。彼女もその後母親になり、私も母になった。激しい人だったが彼女の気持ちは私も同じです。

 勝るのはやはり命の力でしょうか。その力は人々が寄せあい育てあう力です。

 お互いの命を大切にする人の意思と他人の意思が結び合い、力をはっきするところです。

 自分の本音を無くしてはいけません。自分を無くしてもいけません。相手もまたその人の本音が あり、その人の真実があります。

 生きていくってことはきっとそういうことなのですね。世界はそうして作られていくのでしょ  う。

 人を自分の思うように支配し利用しようという人はなくなりません。しかし支配によって人を幸せにできる人なんてないのですから、そのことを腹の底から知らなければならないと思います。

 
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一即多、多即一.と天上天下唯我独尊の二つの言葉から  民主主義 [雑感]

6月23日、今日は太平洋戦争末期沖縄戦の戦没者慰霊の日です。
 

 一即多多即一という言葉は折に触れなにかにぶつかるごとに考える言葉です。この言葉に出あったのはもう何十年か前のことだったと思います。芥川賞作家の大城立裕さんの本の中だったと思います。書名を忘れてしまったのですが、沖縄の歴史とご自身の苦悩を描かれた本だったと記憶していますが、この本の中に一即多多即一という言葉が出てきました。沖縄の人の苦悩と歴史をはじめて知ったのはこの本でした。一即多多即一という言葉も天上天下唯我独尊も仏教の経典の中に出てくる言葉のようですね。

 一即多多即一の意味は自分の中に社会のみならず全世界の一切が含まれ、果ては大宇宙に連なる、自他合一、自分などというものはないという意味のようですが、世界に含まれ、世界を含むその一である個人は他人と別の唯一の存在。それが天上天下唯我独尊の意味かと思います。
 仏教にいう無の理解は難しいと感じてきましたが、すこし理解できたような気も。
生きていく上でいろいろの悩みや不安をもつ実際の自分を客観的に凝視してみればその存在は一即多多即一の因果の結果でつねに移ろうものであることに気づきます。
独自な自分などというものは存在しない。ということと実際いきている自分という両者であるとわかります。
 実際を生きている個人は釈迦の言葉でいうと、「欲しい欲しい、足りない足りない」という生存本能に突き動かされている存在。 
 自分一個のように思っている個人はこのように全世界宇宙につながっている存在なのですが、実際の自分が意識する認識は世界や宇宙のなかの些細な点のような認識にすぎない。どんなに頑張って努力した人でも個人の認識は限られていて、無明無知なのだと思います。そこに絶対や一なるものはない。民主主義はこの事実から出発していると思います。多様である事実を認めるその前提にたって共存や共生するシステムと思います。

 戦争が終わったのは五歳のときでしたから戦後の教育が始まった最初の年代にあたります。戦後教育を受けた、最初の世代が戦後の民主主義をどううけとめてきたのだろうかと考えます。戦後の民主主義教育が日本人の魂をダメにしたと考える人たちがいるのですがほんとうにそうなのでしょうか。
 戦争や戦争の時代を知ったり勉強したりするようになったのは学校教育の中ではなかったと思います。社会科の中のそれもほんのちょっとしか触れられない近代史ですから何も知らないといっていいのです。ただ当時は敗戦後の混乱を極めた時代でした。そこには食料を求めてぎゅうぎゅう詰めの列車で農村に買い出しに来る人達がたくさんいましたし、上野駅には何年も浮浪者がたくさんいました。親を亡くし住むところを無くした子どももたくさんいました。自分の身辺だけでなく映画や書物などを通して世界全体を覆った大戦の姿を知りました。しかし、戦争について今になって知らなかったことを知ることはたくさんありますし今になってからのほうが戦争についてよくわかるように思います。当時を知り学ぶことはこれからの時代が平和であるために大切なことと思っています。

 今日の朝日新聞朝刊に孤児として過ごした苦しい時代を見つめなおし、語り始めた「沖縄の孤児、語り継ぐ」という記事がのっていました。その記事の一部から。

 72年前の沖縄戦では一千人以上の孤児を生んだといわれています。
 孤児の一人、嘉陽宗伸さんは当時7歳、一緒に逃げた祖父と母は目の前で砲弾に倒れた。「バーンと音がして、母が覆いかぶさってきた。お腹の中が出て、、、二人即死だった。4~5日が過ぎたころ、米兵に見つかり、トラックに乗せられ、50人ほどの子どもが詰め込まれていたゴザ孤児園と呼ばれていた民家で嘉陽さんの戦後が始まった。2~3歳の子ども15人ほどをつれてこの孤児園で働いたことのある本村つるさん(92歳)の話「ミルクを飲ませるんだけれども、下痢してね。服もおしめもない。雑魚寝の子供たちは朝起きると体中、便まみれだった」
 沖縄の過酷を極めた戦争の姿がありありとうかがえます。
 
 時代は目まぐるしく新しく移り変わるのですが人間の基本はかわらないのではないでしょうか。
 戦争へと進んだ当時と現代人がどれほどちがっているのでしょうか。違っていると信じたいのですが。    
                   (続く)                
 

前回の続きです。

 買いたい本があって本屋さんに行きました。ああやばいですね。「正義がゆがめれる時代」など四冊も買ってしまいました。旅行も友達とのお茶のみもなるべくしないようにして出費を少なくしているのに4800円の支出痛いです。
 ところで今日読んでいた本にこんな記述がありました。
 「戦後から70年代初めにかけての奇跡的ともいう経済成長は戦争ですべてが廃墟になった戦後復興にすぎない。この成功体験からすでに「成長の時代は終わったのに、終わったことにしないでだましだましやってきた。不可能性の時代に不可能を可能にするのは不正だけなのだ」
 これってああ、実感と思いました。
 需要できる経済力がなくなっているのに供給過多に。
 それにしてもこれから読書中心になってしまいそうです。

 
 「愛国と信仰の構造」全体主義はよみがえるのかを読んで、今の日本の状況がどちらの方向に進むかの大変な分かれ道になっていると思いました。
 なぜニイルの本をもう一度考えてみたいと思ったかはこれからの日本も世界も人を生かす社会になるか、人を殺す社会になるかの大変な分かれ目になっていると思ったからです。
 自分のことを自分で決めることができる自由と人と人の権利はフィフティヒィフテイという民主主義のもとに育てようという命を愛する人たちと懲罰や禁止、軍国主義など憎悪の人生否定との戦いであるとニイルは考えました。
 ニイルの言う自由は勝手気まま、自己中心の放縦の意味ではありません。



 国や民族、また個人のレベルでも歴史や伝統皆それぞれ違い、考え方も違いますが、人間であるという共通項があります。違いを認めながらそれでも共存するためには同じ人であるという共通項に立つ以外ないのではないかと思います。その共通項は命の尊重です。釈迦は殺傷をしてはいけないといいました。自分の命が大切なように相手の命も大切であると。
 憲法を改正しなければならないと考える理由はなんでしょうか。どうしてそう考えるのか、その主張を少しずつ読んでいますが、私はどうしても賛成ではありません。主な意図される憲法改正点は軍隊の明記と集団的自衛権と交戦権、武器使用など、さらに基本的人権の問題などでしょうか。
 
 

 「破壊と死に導くもの、そこには絶対に救いはない」というニイルの主張は正しいように私は思いました。
  
 次回戦前と戦後憲法の違いをもっとよく勉強してみたいと思います。

再びニイルにもどって考えてみる。理想と現実の間

 
 
   ニイル著作集6 問題の家庭から思うこと

 ニイルは人間の問題、世界の問題を問題の子の教育という長い間の実践とその観察から、今日の不安に満ちた社会を根本的に考察した人だと思います。
 イギリスのサマーヒルでの生涯を通した問題を持つ子を作らない教育実践で、教育のあらゆる方面にわたって問題の背後に何があるかを解明しました。そして子供たちの良き発達のために何をすべきか、新しい子供の取り扱いについて提言しました。問題の子とは不幸な子、問題を抱えた子どもという意味でしょうか。ニイルは問題を持つ子を作らない教育をとおして、闘争と破壊、疾病、戦争の絶えることのない世界から、真に平和で幸福な世界を築くことができると確信する卓抜な世界観をもつ偉大な思想家でもありました。

 今、日本では憲法改正の問題、喫緊のところでは共謀罪を巡る問題が議論されているのですが、根本にある問題に目を届かせることがおろそかになっているのではないかという疑問を持ちます。
 たとえば共謀罪ですが、犯罪になる前の計画、相談、準備の段階で取り締まるという法案ですが、この法律が適用される犯罪の範囲が明確ではなく(私などは読んでもいないのですが)、それが計画、準備段階の取り締まりだというのですから、普段からの監視が必要になります。
盗聴や市民からの通報、密告、通信傍受、車の移動監視などが行われ、取り締まる側の職権乱用や恣意的操作によって普通に暮らす人の基本的人権や思想信条の自由や表現の自由などまで取り締まりの対象にされ侵害される可能性も心配されています。もしわたしが今の政府の方向は危険だと思うと発言したとしたら、国家転覆の危険性ありと戦前そうだったように監視の対象になるのでしょうか。
 犯罪に脅かされる現実があり、安心して日常生活をおくることができないようになっていることも実際ですから、犯罪の取り締まりを強化してほしい、安心して生活できる社会になってほしいと思うのは市民の願いです。
 
 憲法改正の問題でも戦後の民主主義、基本的人権の尊重などによってあまりに自由や人権が尊重された結果利己主義がはびこってしまった、日本の心が失われているので日本の伝統文化に立ち返るべきという考えが日本会議や自民党、一部の政党にもつよくなっています。

 又日本の安全保障をめぐる問題では、中国や韓国、北朝鮮との関係を巡って安全保障環境が変化していると一部では憂慮する声がつよくなっています。そのために日本も軍備を増強して防衛すべきと。

 これらのなかなか解決の難しいい悩ましい問題の基本問題はなんでしょうか。

 理想と現実の間

 人間であることと人と人の間。人の住む世界と国と国の間  ということでしょうか。

 わたしにはニイルはこれらのことの根本に立ち返って考えたように思えるのですが。



 そのニイルの主張の一部から、
  子どもの困った行動を起こすコンプレックスの原因を知るだけでは子どもをよくすることはできない。この事実を知るためには私にとって長い年月を要した。子どもを直すということだけが教育者としての重要な任務ではない。教育者の仕事は子どもを直すということなどが必要のない新しい時代を生み出すことである。

 「子どもを直すということなど必要のない新しい世界」とは、ニイルはどういう世界をイメージしたのでしょう。ここにニイルが単に教育者にとどまらない卓越した世界観を持つ思想家であることがしめされているように思います。

 コンプレックスという言葉を知った初めのころ、コンプレックスというのは劣等感という意味と思っていたのですが、そうではなく無意識下の、あるいは一部意識された意識の塊のようなものという意味のようだと分かりました。劣等感とか、ある種の恐怖とか不安とか、先入観、偏見などこれらは人を左右しているコンプレックスということができるのだろうと思います。
 個人にとって重要な意味をもってその人を動かしている無意識下の塊はその人を苦しめたり、思わぬ方向につれていってしまったりしますから、自分をよく知るということはこうした苦しみをよく知ること、客観的に物事をとらえる訓練によってコンプレックスから解放される、あるいは冷静な対処の仕方ができるようになるということなのかと思います。
 コンプレックスは青年でも老齢でも年齢を問いませんが、子供は自分で自分の心を表現したり理解したりできませんから、大人が理解する必要があります。ニイルがこどもの困った行動を起こすコンプレックスの原因を知ってそれを取り去ってやることといっているのはそのためです。

            次回に続けます。
 
                      

再びニイルにもどって考えてみる。憲法問題をかんがえるために。二 [雑感]

 
 
 人生をあまくみるな。100年に一回、いや1000年に一回しかないような時代の大きなうねりに直面していながら、ただ一つ変わっていないのが日本人のメンタリティー。与えられることに慣れすぎている。あるいは与えられるのを待っているーーーーという落合信彦さんの指摘、わたしも同じように感じますが、個人的には人生を甘く見るなという戒めは日々強くなります。

 なぜというと、
 明治維新からの80年、戦後70年のその時代を考えると世界や社会がどう変化しているのかがわかるように思います。明治以降この間は不況や戦争をはさみながらも経済拡大を築きました。人類は経済的に成長を続けてきたといっていいのだと思います。でも経済的拡大が人間の幸福と全く同じかというとどうでしょうか。ある時期から富の偏在は拡大し続けています。地域的紛争もいつ終わるかわからない状態で続いています。生存ができないという人も大量に生み出されています。自然破壊も進んでいます。これらはプラスの一方で進んでいる負の側面だと思います。

 グローバル化が進行する中で、世紀のモンスターが世界を支配するようになっているというのは本当ではないでしょうか。はじめは軍産共同体が戦争がないと死んでしまうからあちこちで戦争を仕掛けてきた、今は国境がない国際金融投機が世界を支配しているといわれていますが。北朝鮮を巡る危機も北朝鮮のキム体制の問題だけで作り出されているのではないと思います。日本のマスコミの報道はキムジョンナムの危険性だけの問題のように報道されました。日本での危機感が韓国以上だったというのもいかに作り出されたものか、それが利用されている側面もあるのではと思います。

 朝鮮動乱は冷戦下での東西対立で、パルチザン闘争をしながら北朝鮮を独立に導いた金日正が率いる北朝鮮と中国ソ連対アメリカ韓国の連合軍との闘いでした。この戦争は東西冷戦の戦いでアメリカにとってイデオロギーをめぐる重要な意味があったのだと思います。この時同じ民族が南北に分断されました。東西の冷戦がなくなった今、世界の孤児のようになった北朝鮮を巡る問題が危機として浮かび上がってきたのはかってとは異なる要素が複数あるのではないかと思います。
 
 

 自分一個のことではもう老齢だから、先がながくない、自分なりに頑張ってその結果どう一生を終わってもいいと思うのですが、でも親であり、次の世代、これから先の時代について責任はないのかというとそうは思えないのです。親として何が問題だったのか、自分の経験を振り返ってみることはとても大事だと思っています。


  ニイル著作集6 問題の家庭から。

 なんと時代を予言していることかと思いました。
 ニイルはイギリスのサマーヒルでの生涯を通した問題を持つ子を作らない教育実践で、教育のあらゆる方面にわたって問題の背後に何があるかを明らかにしました。子供たちの良き発達のために何をすべきか、新しい子供の取り扱いについて提言しました。問題の子とは不幸な子という意味です。問題を持つ子を作らない教育をとおして、闘争と破壊、疾病、戦争の絶えることのない世界から、真に平和で幸福な世界を築くことができると確信する卓抜な世界観をもつ偉大な思想家でもありました。

   次回にもっとニイルの教育実践と自由の問題について考えたいと思います。


 



再びニイルにもどって考えてみる。憲法問題をかんがえるために。 一 [雑感]

 さわやかな緑の風に誘われて散歩に行きました。落合信彦さんの「豚」の人生、「人間」の人生という本をもって出かけました。
 この本が出版されたのは1999年4月でだいぶ前ですがその頃購入したのに、ほとんど読んでいなかったようです。
 
 人生をあまくみるな。コマーシャリズムに流されるな、人生の目的を見定めろ、本当の危機意識を持てなど、共感するところが大です。なにが危機か、この本が書かれたころよりもっと今のほうが両極化がすすみ深刻化しているように思います。対話と民主主義が形骸化していると感じるからです。

 本の中から

 今の日本は、古代アテネの世界最古の民主主義が崩壊していった過程とよく似ている。歴史家のトゥキディデスが言っているように、市民の一人一人が「誰かがやるだろう」「俺には関係ない」と思い始めたときから民主主義が崩れていった。で、アテネ市民よりもはるかに能のない人間が出てきて独裁者になっていくとしたら。

 財産ばかりか、命まで奪う国。
 日本の最大の無駄と言ったら、やっぱり政治家だな。それも害のある。日本の政治家はすべて甘くみている。97年大局を見誤って、消費税を3パーセントから5パーセントにあげても、大丈夫、「国民は何も言わないから」、結局経済危機を迎えちゃった。オレなら不明を恥じてバッジを外す。ところが一人でも「何もできなかった」と言って頭を下げてバッチを外したやつはいるか。この日本を大きくし、支えてきた中小零細企業がどんどんつぶれ、経営者が自殺していった。
とんでもない不良債権を生み出した銀行には公的資金を使い、ひたすら一生懸命働いてきた中小企業は見殺しにされた。日本を支えてきたのは彼ら。バブルは人災なんだからしっかり考えなきゃだめなんだ。
 涙のない政治にこそキレろ。君たちには無能な政治家を首にする義務がある。
 
 ズバリと鋭い、ああと考えさせられる内容です。若いこれからの人に読んでほしいなと思いましたが。




 憲法改正を巡る議論がさかんになってきました。安倍総理が2020年に憲法改正をしたいと日程をあきらかにしましたから、その是非はともかくとして憲法についての議論が日程にあがってくることは確実でしょう。
 今日、NHKスペッシアル「憲法・70年の潮流」という番組を見ていましたが、憲法についての議論の難しさを痛感しました。あらゆる要素が複雑にねじれあっているからです。十分に時間をかけてしっかり議論すべきだし、わかるようにしっかりした整理が必要ではないでしょうか。ゆめゆめこれだけの時間議論したからなどとセレモニーにすることがあってはあらないと思います。

 最近インターネットの記事で、ある大学の法学部の新入生を対象とした調査で若い人に憲法改正に賛成か反対かを調査すると5対4くらいの割で改正に賛成になるそうです。
 

 なぜ憲法改正が必要と考えるかについて。その理由であげられていたことが時代の変化に合っていないというもの。そして武力を持ち、自由に使う権利を認めることがそのまま戦争につながるとは思わない、自国を守るため、攻撃されない国作りが必要という、どちらかというと社会的変化に敏感な考え方のようです。法学部の学生でも憲法と法律の違いが分からなかったり、なんとなく今の社会が変わってほしいという気持ちがあって憲法を改正するとそうなるのではないかという気持ちもすくなくないようです。

 一方護憲派の考えは戦争を絶対的に否定する考えに支えられ、社会情勢に左右されない。むしろ問題の解決に武力による威嚇や戦争を用いないとした、過去の何度かの戦争の惨禍の教訓から導き出した平和主義や国民主権、立憲主義などをもっと自分たちの血肉にすべきという考えのようです。

 二つの考えの違いは簡単に埋まらないように思われますが、それだけにあらゆる角度からどれだけ議論が深められるかではないでしょうか。明日の世界をどういう世界にしたいのかが問われています。
 


 
 

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